古道散策
杉並今昔物語
天沼今昔物語
祈りのこころ
天沼今昔物語(抜粋) 第一話
ここ天沼村は、江戸時代には73戸、明治の初めは77戸の戸数で、今とは大違いの、棒や、杉が生い茂り、狐、狸が走り回っている武蔵野の原野でした。明治24年に荻窪駅ができ、それから、少しずつ人が増えてきたのです。
大正11年に、高円寺、阿佐谷、西荻窪と駅が出来、その一年後に関東大震災が起きました。そのときの被害は、杉並町1800戸で、全壊が10戸、死者、行方不明者0、火災なしで下町と比べて被害が無い、微小の状況で、駅の新設、そして、地震に強いということで、この頃から人の移入が進みました。それまでは、近郊農業(野菜などの栽培)でしたが、耕地を宅地化して行きました。その推進役を担ったのは、行政ではなく、土地の人々でした。その中心は、この天沼では浅倉さんでした。其の訳は、浅倉さんの御先祖は今から610年前に、紀伊半島の熊野三山から、熊野様の御札を持って、舟に乗り、ここ天沼に帰農した人々なのです。そのとき、まげを切り落として僧となって寶(宝)光院(寶光院→十二杜権現→熊野神社)を建てたそうです。宝が光り輝いている様なすぱらしい力をお持ちの神様(神仏習合の時代)と.して奉斎を始めたのです。それで、お坊さんが住んでいる所と言うことで宝光坊という地名になりました。このときが、南北朝時代の後の応永二年(1395年)です。以後天沼の中心は、この宝光院となり、何か相談事があると此処に集まり、相談をしたのです。
天沼の地名を調べられた学者さんがいらっしゃいまして、天沼の地名は、東京都の杉並に一ヶ所、神奈川県に一ヶ所、埼玉県に十一ヶ所あり、東京近隣に合計十三ヶ所あるそうです。そして、これら天沼の地名に共通した立地条件としては、高低の差はあるものの、そのすべてが、池、沼あるいは流水の傍らにある高地であるとの事だそうです。これから考えられることは、天沼とは池、沼に近接する高所で「沼の上(天)」を意味する地名と考えることができます。
この話を裏付ける事として、天沼の地形が変わったのは昭和六年から始まった区画整理からでして、これ以前の地形を示す大正七年頃作成の絵地図が当社にあり、この絵地図が天沼の地名が付けられた昔、むかしの地形を示していると考えられます。これをよく見ると沼は一つもありません。妙正寺川や桃園川沿いに水田があり、雑木林や畑があるだけなのです。天沼といってもやはり沼は無かったはずです。天沼とは沼がたくさんあるという意味ではなく、沼地、湿地帯の上(天)という意味で間違いないでしょう。ここ杉並の天沼でいうと、妙正寺川の上の高いところの場所を天沼と言ったのでしょう。沼という地名が付くので地盤が弱いわけではなく、地盤はしっかりしています。
江戸時代の初期には、天沼村には三杜の氏神様が鎮守されていて、その氏神様を中心に地域が区分されていましたが、昭和40年に誰もが町の境が分かるように(警察、消防、郵便配達等の人々)、道路区分された町へと変遷させられました。地域の繋がりが行政の境でしたが、行政による行政の為の町区分変更が行なわれました。しかし、土地の人々にとって地域の中心である氏神様は変わりませんでした。道路を境とする新住居表示の施行によって天沼村は再区分されましたが、その繋がりは切れずに、一つの町名に、二つ、三つの町会が存在する現状を作りました。
次の『地名、町名の変遷と氏神様』の表を参照してください。
地名、町名の変遷と氏神様』
江戸時代の小名 | 明治22年 改定 |
昭和7年 改定 |
現在の町名(町会等)昭和40年改定 : 道路で区分け |
氏神様 |
---|---|---|---|---|
中谷戸 | 中谷戸 小谷戸 四面道 |
天沼1丁目 | 天沼1丁目の南部の一部 天沼2丁目の一部(二丁目町会) 天沼3丁目 |
八幡神杜 1573年創建 |
宝光坊 | 宝光坊 山下 |
天沼2丁目 | 天沼1丁目の大部分 天沼2丁目の一部(二丁目みよし会 ) 阿佐谷北三丁目の西側 (阿佐三会、東側は阿佐谷村) |
熊野神杜 1395年創建 |
本村 | 本村 東原 割間 |
天沼3丁目 | 本天沼一丁目、二丁目、三丁目の 各大部分 下井草一丁目の中央大部分 (東側は阿佐谷、西側は下井草村) (本天沼東町会と本天沼西町会) |
稲荷神杜 1635年創建 |
江戸時代は畑作だったのが、明治は、畑作、林業、養蚕業、その後、野菜栽培、昭和は宅地の造成という形で原野は耕地に、耕地は宅地に替わつて行きました。これにより、現在の杉並が活性化した地域となっていったのです。電気もガスも水道も駅も、自分達でお金を出し合って、お願いに行って作ってきたのです。杉並区では代々住んでらっしゃる人々が10%前後になって来ましたが、この人々の御先祖達と新住民の人々が氏神様を中心としてまとまり、地域を良くしよう、より良い方向に進めようという強い気持ちを持ち続けてきたからこそ今の杉並があるのです。
杉並は、工業地区ではなく、商業地区でもなく、住宅地区です。ですから、土地の人々より、この町に10年、20年住んでいるという人々の方が多い町です。そして、次また何処かに移って行く人々の方が多い町です。この新しい人々、新住民の人々は、氏神様を中心にして早く町になじんでいただければと思います。氏神様のお祭りやお正月に積極的に参加して欲しいと思います。一時とはいえ、この杉並にお住まいの人々には、地域の、町の為にカを出してください、皆さんのカで今の天沼、本天沼、荻窪、阿佐谷を作る事が未来に繋がる事であります。来年は此処に住んでいるかどうか分からない人々でも、是の土地に愛着を持つて歩いて頂きたい。その道も、私達の先人が作ってくれた道なのです。
平成16年6月
天沼今昔物語 第二話
天沼の文字が始めて歴史に出てくるのは、寛永十二年(1635年)でおよそ400年前の事です。将車徳川家光が、赤坂の日枝神社にお参りした時、「ご奉納として、阿佐谷村、天沼村、堀の内村、下荻窪村の四村をさしあげた。」とあり、これが初見だと思います。それ以前の記録では、応永二十七年(1420年)の「武蔵国江戸の惣領之流」の中に「あさかやとの」(武士の江戸一族の中に阿佐谷に住んで居る一族が居る。との意味)とあり、これが近隣地名の初見と思 われます。このときには、朝倉(浅倉)氏が帰農(1395年)していますが、天沼の記述はなく、この事から推測すると、天沼の地名などを意識する必要がない状況ではなかったと考えます。その後、「堀の内、下荻窪、泉村が鎌倉円覚寺の荘園」「阿佐谷、泉村、永福寺、成宗、高井堂は小田原北条家臣の領地」等の記録がありますが、天沼は出てきません。この後、天正19年(1591年)に杉並地方で太閤検地が行われています。この頃から、「此処までは俺の畑だ。」「ウチの田だ。」という意識が出てきたのではないかと思います。それで、土地に対する意識の強まりが、地名の自覚を進め、家光公のご奉納の時(1635年)に天沼という文字が出てきたのではないでしょうか。これは私見であります。
また、天沼には、暗渠になっていますが、桃園川という川が在ります。しかし、これは、自然の川ではなく用水路として、天保年間(1830年代)に阿佐谷村名主相沢喜兵衡が造った物です。青梅街道の関町一丁目信号の交差点を南に入った所に、千川上水から取水している桃園川の始まりがあります。青梅街道に沿って四面道を過ぎ、りそな銀行とJTBの間のカラー舗装している脇道に入り、その道に沿って、日大幼稚園の脇、慈恩寺の脇、中杉通を越え、河北病院の東側を通り、欅プールで中央線を越え桃園川緑道に繋がり、馬橋、高円寺、大久保通りに沿って山手通を越え、末広橋で神田川に合流します。
この用水を、灌概に利用したり、米を搗く為の杵を動かす水車の動力源として使っていました。天明八年(1838年)の調べで近隣の水田、面積は、上井草村十町歩、下井草村二十八町歩、天沼村三町歩、阿佐谷十二町歩、下荻窪村二町歩とあり、やはり天沼村は裕福ではなかったようです。
以上、新修杉並区史を参考にさせていただきました。ご指摘、ご指導 ございましたら、天沼熊野神杜まで ご連絡いただければ幸いです。
平成17年6月
天沼今昔物語 第三話
天沼が開けたのは、やはり、甲武鉄道(現在の中央線)に荻窪駅が創られたからだと思います。ではなぜ荻窪駅が創られたのかと言うと、当初は荻窪を通らずに、江戸時代の宿場町であった、高井戸、田無を通る計画でした。しかし、当時の汽車が出す火花がワラの屋根に飛び火事になる、汽車の振動で鶏が卵を産まなくなる。と反対運動が起こり、中野から立川まで真直ぐに鉄道を引いたのです。それで、青梅街道と鉄道が交わる荻窪に駅ができたのです。多摩、田無、高井戸又近隣の村で生産される物を東京に輸送する貸物の駅として開業したのです。それで、貸車の為の引き込み線があったり、日本通運や豊多摩通運ができたのです。それでは青梅街道がなぜにできたのかというと、徳川家康が大阪城を攻め落とし、江戸に幕府を開き、大阪城を凌駕する城を作る為、漆喰の主要材料である大量の白土(焼き石灰)を成木村(現在の青梅市)の石灰でまかなう為に青梅街道を作ったのです。歴史には必然もあれば、偶然もあるかもしれませんが、やはり何か理由があるのだと思います。
また現在の、日大ニ高のテニスコートの東にある都営アパートの所は、戦前は野方警察署付近から繋がる陸軍通信隊のハラッパでした。有線通信の為の電線を引っ張る訓練をしていたようです。なぜに、そんなに広いハラッパがあったかというと、野犬を放しておく場所だったからです。江戸時代、五代将軍綱吉のときに生類哀れみの令が出され、犬などを殺すことができなかった為、野犬が増え危ないので、其の野犬を囲って置く為の場所だったのです。当初は高円寺までだったのが次第に拡張されて天沼まで拡がって来ました。
犬を放していても問題が無い原野だったのかもしれませんね。野方警察署の町名は、今は中野四丁目ですが、以前は囲町という町名でした。それは、犬を放し飼いにする、犬を囲っている場所の入口だったからです。今では中野体育館横にある囲町公園にしか名前は残っていません。また、中野区役所の脇に鎮魂の為の犬の像があります。
それ以後は、鷹狩りの場所になり、徳川将軍がよく来られたようです。それで、アメリカンエクスプレスの南にある旧中田村右衛門の屋敷跡があるのです。明治天皇荻窪御小休所とありますが、将軍が来ていたので、明治天皇も休憩に使われたのです。立派な門が残っていますが、将軍が、百姓の納屋で休む事はできないということで、特別に百姓であるが将軍の為に、本来は許されない門を作らせ、門構えの家を許したのです。鷹場に将軍が来るときには、道路、橋等の修復も行わされました。また、鷹の獲物であるウサギや狸などの動物も捕ってはいけないし、林を無くして畠を作ったり、家屋敷の新築なども制限されていました。この様な為に天沼村の人々も裕幅な生活はできませんでした。
以上、新修杉並区史を参考にさせていただきました。ご指摘、ご指導ございましたら、天沼熊野神社までご連絡頂ければ幸いです。
平成18年6月
天沼今昔物語 第四話
天沼周辺にお住まいであった著名人の人々を今回は紹介いたします。
まずは、皇居宮殿の壁画「朝陽」、法隆寺の壁画の二度に亘る復元模写、舞妓さん達などを描かれた橋本明治画伯。当社のすぐ西にお住まいでありました。現在でも自宅兼アトリエが残っています。私が研修で出雲大社に出かけたとき、待合所にて大きな龍の絵を見つけました。はてと思い、お聞きしましたところ、やはり画伯の絵でした。出雲神話のヤマタノオロチからヒントを得た「龍」だそうです。落ちないように、しっかりと付けられている為、取りはずす事ができません。その為、ここでしか見ることができません。出雲大社にお参りに行かれたら、是非この絵もごらん下さい。また、熊野神社には小出あき子さんが描かれた、「秋の光」(境内の紅葉の景色)がありますが、小出さんが境内で描いているとき、後ろに来たおじさんが「そこの色はおかしいな」と注文を付けたそうです。「うるさいわね」と思ったら「橋本明治さんだった」という逸話の絵であります。
つぎに、独自の私小説の道を切り開いた、上林暁文士の住居は、神社の前の道を100mほど東に進んだ所で、昭和の雰囲気を残した板塀で囲まれています。二度も脳出血で倒れましたが、創作意欲は衰えず、倒れた後に、読売文学賞を受けたり、第一回川端康成賞も受けられています。左手でのミミズがはったような文字で書いたり、妹さんに口述筆記してもらったり、亡くなるまで創作活動を続けました。妹さんは健在で、玄関をくぐると沢山の蔵書が垣間見えます。私は「本が沢山あるな」と思っていましたが、最近その理由が判りました。この妹さんが『兄の左手』という壮絶な文筆活動の記録を出版されています。
フランス文学者の河盛好蔵さんも神社の南150mほどの所にお住まいでした。87歳のときに脳梗塞で倒れた後、89歳で『私の随想集』全五巻を刊行され、97歳で亡くなられました。阿佐ヶ谷会の最後のお一人でした。私の随想集は、パリのうきうきするような華やぎや、日常のことを判り易い文章で書かれています。
全国的に一番有名な人、太宰治。日大二高通りを四面道に向かいまして、右手にセブンイレブン、左手にガソリンスタンドがある細い交差点を左に曲がり、床屋さんの斜め前のお宅がお住いでした。古い家ですが、今でも洒落た家だなと思います。
阿佐谷文土会の中心人物でした、井伏鱒二さん。清水にお住いでした。杉並区立郷土博物館に、荻窪の昔の姿を留めた、住居の模型が展示されています。「荻窪風土記」で、荻窪を全国的に知らしめて頂きました。
最後に、版画界のゴッホこと棟方志功さんについて、上荻にお住いだったそうです。青森に研修に行ったときに、棟方志功記念館があり見学しました。すごい人だなと感心していましたら、荻窪白山神社の今の宮司さんが、「家の近くに住んでいて、木切れをいっぱい持ってきたんだ。全部燃しちやった。今思えば勿体無かったな。」と聞きました。
以上の人々とは私はお会いした事がなく、残ったお住いを見るだけですが、そこで、苦悩しながら必死に絵を描いたり、文章を練っていたかと思うと、感慨深いものがあります。しかし、人の命には限りがあることをつくづく思う次第でもあります。生かされていることに感謝して、日々明るく、前向きに生きていくことが大切であることを感じる次第であり、此れが神道の心ではと考えます。他にもすばらしい人々がいらっしゃると思いますが、お教え頂ければ幸いです。
平成19年7月
天沼今昔物語 第五話
杉並区の杉並の由来について
杉並の名称の起源は、古いものではなくわりと新しいものです。徳川時代初期に、旗本の岡部氏(千五百石)が、成宗村、田端村の領主になったとき、阿佐谷村(赤坂日枝神社の社領地、天沼村も同様です。)との領地境の目印として、青梅街道ぞいに植えた杉の並木からきています。阿佐ヶ谷の地名の方が古いのですが、青梅街道を通る人が増えるにつれ、また、暑い夏の日には涼んで休憩したり、雨宿りしたりして「青梅街道の杉並木」の名称から杉並の地名(字名)が生れたのではないでしょうか.今の区役所のあたりです。
江戸時代初めの阿佐谷村の字名を見ると、向、小山、原、本村しかなく杉並はありません。又、近隣にもありません。ですから、間違いなく、江戸時代の初期に岡部氏が植えた杉の並木が杉並の縁起と考えます.ですが、この近隣では一番古い地名の阿佐谷ではなく、どうしてこの新しい地名が、今、この近隣を代表する名称に格上げされたかと言うと、明治二十二年の町村制施行で近隣の村々が合併されることとなり、天沼村、高円寺村、馬橋村、阿佐谷村、田端村、成宗村、下荻窪村の7村が合併し、その村名は阿佐谷村と提案されたのですが、下荻窪村は上荻窪村の方に合併したほうがよいとされ、次に村名は、字杉並の地名が今は著名なので名称を杉並村としたいと再提案され了承されたのです。初代の村長は玉野惣七さんで、村役場は世尊院に設置されました。
大日本帝国憲法の発布(明治22年)に合わせて、地方制度の再編も実施され、翌年には、第一回衆議院総選挙も行われています。藩閥政治から立憲体制へ転換する最中、明治22年(1889年)杉並村は誕生しました。これにより、現在、杉並木はありませんが、杉並の名前が継承され今の杉並区の名称に至っています。
参考・・杉並区で一番古い地名は、阿佐谷なのです。応永二十七年(1420年)の記録に残っています。紀伊半島の熊野那智大社がお札を配っていた記録に「米良文書」というのがあります。そこに「江戸氏の十八流」として、お札を配る為に家の名が記載されていて、阿佐谷殿(杉並区阿佐谷)、丸子殿(大田区、川崎市)、中野殿(中野区)、飯倉殿(港区麻布)、牛島殿(墨田区向島等)等々十八軒の記録か残っています。これ等の地名は600年前からある地名で関東では古いものとなります。ちなみに、紀伊半島の那智熊野の熊野様のお札を全国に配って周っていた人たちのことを、御師(おし:御祈師の略)といい、伊勢の神宮の天照大御神様のお札を配って周っていた人たちのことを、御師(おんし:御祈祷師の略)といいます。
私見の部分も多々ありますので、ご指導、ご指摘頂ければ幸いです。
平成20年7月
天沼今昔物語 第六話
天沼の教育施設
江戸時代の庶民の教育といえば寺小屋ですが、残念ながら天沼村にはなかったそうです(荻窪駅の南口付近には稲葉堂という寺小屋がありました)。ですから、天沼での学校教育の始まりは、日大二高通りの交番を北に進んだところにある蓮華寺になります。大正6年6月1日のことであります。20畳程の一部屋をお借りして桃野尋常高等小学校(現在の杉一小)の分教場として始まりました。現在八町会の会長で、天沼陸橋の近くにお住まいの藤原嘉民さんのお父さん、藤原一嘉さんが初の先生で、1年生、2年生の児童18人の教育にあたりました。学科は修身、読書、習字、算術の四科目で、黒板を半分ずつ使い、半時間ずつ教えていたそうです。司馬遼太郎著の『坂の上の雲』にも、教育は「読み、書き、そろばん、人の道」とあります。やはり、この四つが教育の基本ですね。また、明治の実業家、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一も、「右手に論語、左手にそろばん」と言っています。 やはり「人の道」が大事ですね。
次に、杉並第五小学校が大正15年4月1日に開校し、教員8名児童311名で始まりました。このため、分教場はなくなりました。しかし、杉五小の開校記念日は、分教場の始まりを尊び6月1日としました。詳しくは、「新 天沼杉五物がたり」をお読み下さい。
杉五小は、平成20年3月に閉校して若杉小と統合し天沼小学校になり、82年の歴史を閉じてしまいました。
天沼小学校は、平成20年4月に開校し、初めての一年生74人が入学、21年3月には天小一期生58人が巣立っていきました。歴史はこれから作られます。
昭和2年4月に、天沼でもう一つの大きな存在である、通称、現在の日大二高(正式には日本大学第二学園)が創立しました。木造二階建てで9学級、540名の始まりだったそうです。本年で83年になります。
当時の日本大学学長 山岡萬之助法学博士がドイツ留学中に得た「中等教育が人格陶冶(トウヤ:才能や性格などを練り鍛えて養成すること。)に重大なる関わりを持っている」ということで、中学校(現在の一高、一中)を大正2年に本所(現在の墨田区両国)に作り、次に、第二中学校(現在の二高、二中)の創設を山野井亀五郎氏に託されました。山野井亀五郎氏は、各地を探されたそうですが、最終的に「西に毅然たる富士を仰ぎ、南に杉並の森を眺めるこの天沼を理想的教育地」と定めたそうです。(余談ですが、日本大学の建学(明治22年)の精神は、「欧米心酔の時代、日本の姿を忘却せず、日本文化に裨益(ヒエキ:おぎない役立つこと)し、教導する。をもって建学の本旨とする。」と、あります。すばらしいですね。今もって同じ精神は必要と感じますし、日本と欧米両方を学ぶともっと良いと思います。)
しかし、理想的教育地といっても、今とは大きく違って、学校の回りは畑や雑木林や竹やぶに囲まれ、東は中野のほうまで、頭も隠れてしまうようなカヤや雑草のハラッパが続いていて、今はバス通りになっている日大二高通りも狭い道で、狐や狸はいても、人はろくに通らないところだったそうです。このため、学校を創っても学校を知っている人がいない、それで、山野井先生自身がトラックに乗って、四谷、牛込、小石川、渋谷から吉祥寺、国分寺、立川、八王子、三多摩等の各地にビラ貼りや、看板を立てに出かけ、宣伝して回ったそうです。今とは大違いですね。現在の鉄筋4階建てエアコン完備で在校生約2000人の姿は、すばらしい先生達の積み重ねです。
開校前の二高の敷地についてですが、西側は畑や雑木林で、東側は、陸軍中野電信隊の演習地で、その南側は乃木将軍ゆかりの物などを集めて顕彰公園の計画があった草むらだったそうですが、その計画が中止されたあと、当時の杉並町長陸軍少将岩崎初太郎氏や地域の方々の理解、協力を得て、校舎と運動場敷地を獲得し開校の運びとなったそうです。やはり、人と人の?がりが大事なんですね。
中学校の校舎と校庭のほかに大学のための本格的な陸上競技場と野球場が整備され、日本大学陸上部の合宿所もありました。開校した当時には、土曜、日曜になると東鉄(東京鉄道管理局)などのノンプロチームがこの球場を使ったりしていました。このため、天沼では野球熱が高まり、昭和2年、開校早々に杉五小が全国大会で優勝するきっかけを作ることにもなったようです。戦後も熊谷組が練習に来ていまして、娯楽がない、物がない時代でしたので、近隣の子供たちはその練習を一生懸命見るのと併せて、折れたバットを探しては釘でつないで遊んだりもしていました。
第二学園の80余年の歴史の間には色々な出来事がありましたが、その中でも、太平洋戦争勃発直後に、中島飛行機製作所をはじめ多摩地区の軍需工場への輸送動脈として天沼陸橋の建設が始まりました。この時に日大二中の生徒らも動員学徒と一緒にモッコ担ぎをしたことがあります。また、残念なことですが、戦後まもない昭和23年〜昭和24年に三度の火災にあったりもしています。平々凡々な80余年ではなく、幾多の困難を乗り越えて学園発展の道を歩んできたのです。また、地域との協調、融和にも連綿として努めています。例えば、昭和2年に鶴見小が杉五小との野球の試合を行うためにはるばる遠征してきましたが、その会場としてグランドを提供したり、昭和25年頃には、杉五小の学芸会に講堂を提供したり、今でも、地域の消防団にポンプ操法訓練の場を提供したりもしています。
そして、平成の御世になり、21世紀に向け新たな時代に対応するため、昭和26年から二代目理事長の職を担っていた山野井和雄氏は、とりわけ少子化の問題を大きな課題と捉え、中学・高校一貫教育は保ちつつ、新たに男女別学から男女共学への移行(杉五小でも昭和22年までは、制度的には男女別学でした)とそのための諸施設、組織の再構築を掲げ、平成10年に正門、本館、校舎、外回り等を整備し、信頼敬愛、自主協同、熟誠努力の校訓を基に、幾多の災いあろうともそれらを乗り越え、更なる飛躍を求め学園関係者一同が一丸となって日々努力を重ね今日に至っています。
さて、杉五小、日大二高と同じ時期、昭和2年12月22日に日大幼稚園も日本大学唯一の付属幼稚園として開園しています。当初は1学級19名で始まりましたが、現在は3年保育で各3クラス190人、7000余名の卒園生を社会に送り出しています。またまた余談ですが、私は杉九サッカークラブでもコーチをしていますが、このコーチ陣の中で、日大幼稚園から始まった先輩後輩の関係を、杉五小、天中と続け、杉九サッカークラブで再度その関係が復活した人達がいます。始まりは日大幼稚園だったのです。地域の繋がりとは面白いものですね。
また、戦後、お母さんたちの発案でお母さんたちが幼稚園児たちに給食を作り始めました。現在では、専任の栄養士と調理スタッフにより幼児向けに工夫され、また、近くの、豆腐屋さん、魚屋さんからも食材を仕入れたりして、給食が作られています。幼稚園自体で給食を作っていることは杉並区でも珍しいそうです。
そして、秋になりますと、お兄さん、お姉さん園児たちが、弟、妹園児たちの手を引いて、熊野神社にどんぐり拾いにやってきます。どんぐりを探している喜々とした園児たちの姿にパワーを感じ、また、パワーも貰い、また、幼稚園の教育が充実していることも感じます。まさに地域に根ざした幼稚園ですね。
最後に、今回この三施設の始まりがほぼ同じ時期という事を始めて気づきました。これは偶然ではないと思います。荻窪駅が明治24年にできて37年、東京駅が大正3年にでき、大正8年に中央本線がつながり都心との繋がりが強くなり、荻窪駅が地域の物資の集積、移動のためではなく、人の移動のための駅に変わりつつあった時期、また、大正12年の関東大震災で、当時の杉並町1800戸で、全壊が10戸、死者行方不明者0、火災無しという、安全な地域、また、近隣の方の話で「昭和10年頃で水道と電気があるのは中央沿線では荻窪駅まででしたので、麹町から移ってきました。」とあるように、文化的な生活ができる天沼という場所を選んで、人口が増加して来た時期、そして、東京都市土地区画事業が大正11年から開始されまして、ここ天沼では昭和6年からこの事業が行われました。そのような、東京市郊外が姿を変えていく時期で、当時の荻窪駅周辺の人々、天沼の人々が、「変化に対応していこう」という気持ちを強く持ったからだと思います。更に重ねて考えると、お武家さんの時代には、村の人々の意思では何もできなかったのが、明治、大正と過ぎてきて、昭和になり、「自分たちの町は自分たちで創っていくんだ」と、夢を実現し始めた頃だったとも思います。
以上、天沼の教育施設について述べさせていただきましたが、天沼中学校(昭和22年5月2日開校)については紙面の都合で次回以降をお楽しみにされてください。また、誤りやご指導がありましたら社務所にお電話でも結構ですのでご連絡いただければ幸いです。
平成21年7月
天沼今昔物語 第七話
天沼橋について
前回の社報に誤りがありました。日本大学第二学園の校訓を「信頼敬愛、自主協同、熟誠努力」と紹介致しましたが、「熟誠(じゅくせい:じゅうぶんにできあがること)」ではなく「熱誠(ねっせい:熱情のこもったひたむきな真心)」の誤りでした。お詫びと訂正をさせていただきます。また、グランド横のイチョウ並木は昭和三年に植樹されたと教えていただきました。そして、杉五小が野球の全国大会で優勝したのは、すごいピッチャーがいた事と併せて、日大野球部の親身な指導があったからだそうです。
それでは、今回は「陸橋」、または「天沼陸橋」と言われている「天沼橋」についてお話をさせていただきます。
荻窪駅は明治二十四年に、甲武鉄道の新宿、八王子間と青梅街道が交差する近くに駅が必要ということで、甲武鉄道の八番目の駅として開設されました。駅舎は南口だけで、天沼からの利用者は青梅街道の踏切(現在の駅東側の地下道付近)を渡って乗降していました。当初は、一日五往復、130人程度の乗降客(現在ではJRが9万人、地下鉄が7万人です)でありましたが、次第に電車の量や、青梅街道を往来する車の量が増え、電車が通過するたびに踏切が下がり、青梅街道が長時間ストップされてしまう問題が生じてきました。その対策として青梅街道を北側に移し、中央線を陸橋でまたごうと計画されたのです。荻窪駅北口が開設されたのは昭和二年で北側の一帯は、まだ原っぱでしたのでそこに青梅街道を通し、道幅を拡げようという計画でした。
立体交差の路線橋工事は、昭和十七年に着工されました。太平洋戦争が激化してくると、桃井二丁目の中島飛行機製作所(現・桃井はらっぱ公園)や、三鷹、立川方面にある軍需工場からの輸送が増加し工事は急がれました。しかし、その頃になると、日本の経済はひっ迫していて、工事をしようにも橋を造る為の資材も無く、もう土木工事どころではなくなってしまいました。その上、完成を目前にした昭和十九年十月の空襲で、爆弾が橋の中央部を直撃し、陸橋と線路を破壊してしまいました。荷物電車を狙った艦載機が、陸橋の下に逃げ込んだ電車のところに爆弾を落としたのでした。
終戦を迎え都市再建と共に、陸橋復旧工事は昭和二十三年に始まり二十四年に竣工しましたが、まだ人や牛に引かれた荷車、せいぜい自動車のみの通行でした。その後、路線橋工事が当時の国鉄管理のもとに再び始まり、長さ42.4メートル幅が青梅街道と同じ25メートルの陸橋が、昭和三十年二月に完成し「天沼橋」と命名されました。また、都電が陸橋を渡ったのは、昭和三十一年で、その使命を終えたのは昭和三十八年です。
この陸橋の完成により、青梅街道の流れや、中央線には支障が無くなったのですが、荻窪駅周辺の交通は、南は南、北は北に分断されてしまいました。荻窪を南北に行き来しようとすると、駅の構内を階段で地下に降りて上る、または、離れた新宿側の地下通路や西口の架線橋を上って下りるしかありません。車を使おうとすると、更に大きく五百メートル以上も迂回して、陸橋か環状八号線を使うほか無いのです。また、電車に乗るにも、階段を下りて、階段を上らなくてはいけない。荻窪駅だけを見ていると不便さが良く分かりませんが、阿佐ヶ谷駅などと比べると不便さが良く分かります。今でこそエレベーターがありますが、それ以前は車いすでの移動もまた大変なものでした。それだけに街の発展に大きな障害となっています。
現在、平成二十三年完了予定で、立川までの中央線高架化工事が着々と進められています。三鷹駅より西の高架化が大半進み、武蔵境駅や東小金井駅の近辺を南北にスムーズに流れる車を見たり、実際に走ってみるとその利便性が高まった事を実感するのと併せて、私たちの荻窪駅も高架にして欲しいものだと切に思うところです。
ところが、一度だけ荻窪駅を高架に出来るチャンスがあったそうです。これから以降は「新天沼杉五物がたり」の最後に書かれている『荻窪物語:松葉襄 稿』を抜粋させていただきます。
昭和三十七年頃、当時の国鉄は、中央線の利用度の急激な上昇に対処するため、それまでの複線を高架化して複々線化する計画を進めていた。それは、高架化であった。ところが荻窪で大きな問題にぶつかっていたのである。青梅街道が荻窪で線路をまたぐが、陸橋をどう処理するかである。国鉄は、現状のままの地上線にしておくことを決めた。変更は膨大な費用がかかるという理由によるものであった。
計画を知った商店街を軸とした地元は、他の駅が高架で荻窪だけが地上線であることが街にどういう影響を及ぼすかが分からず、それぞれの思惑、情報、利害関係で議論百出した。やがて、なんとか高架化の方向でと、一般住民も参加し総ぐるみの運動になった。 そして、国鉄と荻窪地元との最終交渉の土壇場を迎えた。地元としては、とにかく荻窪の将来の為にと意見を一つにして、最後の交渉に臨んだ。 国鉄側は、この計画を担当する東京鉄道管理局の最高責任者の局長の出席があり、地元は、国会議員団をはじめ地元代表の有力者すべてを揃え、そうそうたる顔ぶれで、まさに背水の陣をしいての強力な申し入れである。話は進み、その熱意に押され、さすがの国鉄側も高架化しなければならない雰囲気に変わった。
一呼吸置いて、「では、お尋ねしますが、高架化することは、地元の総意ですね」と、国鉄が地元に念をおした。
その時、陳情団の一人が、つぶやくように言った。「いえ、私は、本当は反対なんです」と。一瞬、皆は、あぜんとして声がなかった。それで、すべてが終わった。たった一人の、己の利害のみを考えた反対の声で。そう言った人も、その時の状況を話してくれた人も、今は亡くなっていない。だが、今もその問題は残って消えない。
以上参考にさせていただきましたが、実際には、一人の反対だけではなく他にも反対した人はいたそうです。例えば、北口の商店街は賛成で,南口の商店街に全部ではないのですが、反対派の人がいたそうです。その理由としては、複線を複々線にするわけですから、線路の敷地を広げないといけない、そのために南口のほうの土地を国鉄が買収したそうです。この土地を売った人たちが高架化に反対していたとの話も聞きました。
国鉄としても当時の技術で、陸橋を壊しながら電車を運行するのは困難だったのでしょう。今なら一日で出来るかもしれませんが。
今、荻窪駅北口に立って、まじまじと駅を見ると、さびで汚れた「荻窪駅」と書かれた看板が見えます。「高架化していたら、この看板は新しくなっていたのかな。高架化していたら、歩いて北から南にすっと行けるのになぁ。電車が高架を走ると、タウンセブンもルミネも違う姿に成っていただろうなぁ。」と、想像すると、残念だったなぁーと思う次第であります。
また、現在も荻窪駅の高架化をJRにお願いしているそうですが、エスカレーターやエレベーター、天沼橋にJRがお金を出していることを考えると難しいでしょうね。
平成22年7月1日
天沼今昔物語 第八話
はじめに
今回は「あまぬま」の地名についてお話をさせて頂きます。「あまぬま」の地名が出てくるのは、今から千三百四十年も昔の奈良時代の頃です。奈良の都から全国に通じる駅伝の制度が整えられ、京と諸国の国府とを連絡する幹線道路に適当な間隔をおいて駅を設け、駅馬を乗り継ぐ事によって管用通信や官人の往来に資するように全国に隈なく設置されました。この駅名については延喜式という古文書に細かく見られ、駅名の読み方まで記載されています。
駅は駅馬を養って往来官便に乗継の馬を供給したほか、彼らを宿泊させる設備も備えていて、自然そこには集落が発達しました。
乗潴駅についての旧説
昭和二十八年頃
乗潴駅は延喜式には載せられていない駅であって、その名の見えるのはただ一度、続日本紀、神護景雲二(768)年三月一日の記述に、「下総の井上、河曲、浮島の三駅、武蔵の乗潴、豊島の二駅」とあるだけなのです。この五駅のうち四駅はその後延喜式に載せられ、振り仮名が付けられているのに、乗潴はそれに漏れているので読み方が分からず、この為戦前から、乗潴の駅が何処にあったのかが歴史地理研究の好題目であったのだそうです。
その候補地として、①杉並区天沼説②大宮市天沼説③北埼玉郡岩瀬村小松説④練馬区戸部村説がありました。
さてこの様な諸説が出る原因は、少なくても二つあります。一つは乗潴の読みが定まらないということ。アマヌマとも読めるし、ノリヌマとも読める。そして、その可否を決定する根拠が乗潴駅関連の資料には無いと言う事です。
もう一つは乗潴駅の名は続日本紀に一回しか出ていませんが、それをめぐる関東の交通路線の状態を示す記事が国史に散見され、この文献の解釈に、人によって相違がある為です。
乗潴が一度しか出てこない理由
畿内から長野、群馬、東北へ伸びる東山道がありました。その枝道に新田、足利から武蔵国の国府 府中に繋がる東山道武蔵路があり、武蔵国は東山道に属していました。また、東海道は、畿内から平塚、鎌倉、走水と来て東京湾を渡り、富津岬、木更津、上総国の国府 市原、そして、香取から霞ヶ浦の東を回り潮来、終点石岡の順路でした。この為、府中から市原や石岡に行くためには、南に下がっていかねばならず、時間も、また、海を渡るということで危険も伴いました。この為、府中から東に陸路で、乗潴、豊島、浮島、井上、河曲、下総国の国府 市川に到達していたのですが、東海道が変更になり平塚あたりから北に上がり、町田、大井、豊島へとつながったのです。この為、豊島、浮島、井上、河曲も東海道に編入され、延喜式に記載され、振り仮名も付けられましたが、乗潴駅は廃止となり振り仮名をつけられずに歴史上から消えてしまったのです。府中も町田と繋がり、東海道に編入され、東山道武蔵路は廃止されました。
乗潴の読み方
乗の字は、「のる」と読むのが今では自然ですが、乗潴の文字がただ一度出ている、続日本紀を含めて、その前後の古文書の使用例を調べてみますと、①ノリの読み方が二十例②アマの読み方が二十八例で、乗の文字を、ノリ(乗り)と読んだり、アマル(剰る)と読んだりして使っています。
例えば、当時の律令用語で、乗田という言葉がありますが、これをアマリノタと読んでいますので、乗潴と書いてアマリノヌマと読まれ、アマヌマと読まれる様になったと考えられます。
また、沼についてわざわざ潴の文字を用いているのは、しいて字数の多い字を用いようという意思の現れで、乗の字もそれに合わせた文字であって、普通天沼の文字で表現されるような、自然水を湛える沼としてのアマヌマの語に、いささか気取って当てはめた文字であると考えられます。
乗潴駅は何処にあったか
昭和五八年頃の発掘
乗潴驛を含む連絡道の五駅がどこにあったのかは諸説があり、いずれも推測の域を出ませんでしたが、昭和五八年頃の発掘によって、この五駅の内のひとつ豊島駅が、京浜東北線の、上中駅(王子駅の南)崖上の平塚神社の境内地を含む一帯から出土しました。
駅間の路線は、なるべく直線で結ばれるように設定され、その距離は16キロが基準で。また、水と草の入手し易い所に設ける様に定められていました。ここで、平塚神社と府中の大国魂神社を直線で結んでみますと、25.8キロあります。ちょっと中途半端な距離ですね。また、その直線路上に天沼村があり、かつ、その中間点は交差点の四面道あたりになります。沓掛、神戸、天沼の地名が残っていますので、この付近に乗潴驛があったと言えるでしょう。
沓掛けの地名は、馬の使用する草鞋を馬沓と言い、その馬沓を掛けて干す所を沓掛けと言ったのです。なにしろ一頭で一日三十二個必要で、十頭の馬がいましたので、一日三百二十個必要となります。 その膨大な量を掛けておく場所も結構な広さを必要とします。古地名の字沓掛は、今の清水一、二、三丁目あたりで、沓掛小学校、沓掛ホーム等で地名が残っています。
神戸の地名はこれらの従事者が居住した所を郡戸と呼んでいました。これが、強戸あるいは神戸と書かれて、現代まで伝わって「ごうど」と呼ばれる地名が残っているのです。古地名の字神戸は今の下井草四、五丁目あたりで、神戸町児童遊園で地名が残っています。
また、乗潴をノリヌマではなく、天沼の地名が残っていますので、アマヌマと読んで問題ないでしょう。
それでは、乗潴驛が何処にあったかですが、本天沼は、昔は天沼村字本村と言い、天沼村の東の方は字宝光坊、南の方は字中谷戸と言っていました。
字本村といった訳は、「この土地が本当の天沼だ」という意味があるのではないでしょうか。天沼も広いですが、乗潴驛があったのは、妙正寺池の南東の高台、沓掛小学校の東の高台にあったと考えます。
そして、乗潴駅が廃止されても道自体は使われていたのではないでしょうか、やはり、府中から町田に南下して豊島に行くよりは、東進して豊島に行く方が近いのですから、29キロとして8時間、お昼の弁当を持っていけば行けない距離ではないと思います。この様な気持ちで沓掛け小学校の高台に立って、西の方を見ますと人の手で新たに作られた直線道路がまっすぐに伸びています。東の風景を見ますと、曲がりくねっていて地形に応じて作られた道に見えます。また、よくよく地図で見ると妙正寺川に沿っていることが感じられ、この道が千三百年前から日本人が歩いていた道かもしれないとも思えるのです。
おわりに
「あまぬま」の地名は、乗潴から始まり、天沼に至っているとお解り頂けたと思います。今から一三四三年前からある由緒ある地名なのです。そして、あまぬまの地名が次に歴史に出てくるのは、「寛永十二(一六三五)年 徳川将軍家光公が阿佐谷、天沼、堀之内、下荻窪村を赤坂の日枝神社に奉納する。」の記述なのです。これから以降はこの天沼が使われ始めます。
以上、上記の資料を参照して、あまぬまについて考えてきましたが、皆様方のご意見、ご指摘、他のお話等々ありましたらご指導頂ければ幸いです。
参照文献
- 井口昭英著 井草のむかし 歴研[郷土史研究]ブックレット
- 杉並郷土史叢書一 杉並区史探訪
- 坂本太郎著 日本古代史の基礎研究 下 制度篇 東京大学出版会
平成23年7月1日
天沼今昔物語 第九話
天沼の地名と 阿佐谷駅が出来た経緯
天沼という地名から、ここは地盤が弱いのではないかと考える方が結構いらして、昨年の東日本大震災以後不安に思っている方が多いようですので再び天沼の地名について説明します。
東京の隣接県で天沼の地名は、この東京都で一ヶ所、神奈川県に一ヶ所、埼玉県に十一ヶ所合計十三ヶ所あります。
此の所をすべて調べた方がいまして、これら天沼の地形に共通することは、池、沼、あるいは流水の傍らにある高地である事だそうです。これから考えられる事は、天沼とは、池、沼、湿地帯に近接する高所で「沼の上(天)」を意味する地名という事です。
当社には、大正七年〜昭和三年に描かれた天沼村の絵地図があります。これをみると沼は一つもありません、但し弁天池が一つだけありますが、この池は人工の池で昔からあった池ではありませんので無視して問題ありません。天沼は江戸時代には鷹狩りのため禁漁区で、地形に手を加えることが出来ませんでしたし、江戸時代は73戸、明治時代の始めは77戸の戸数でしたので地形に手を加えたとは考えられません。
天沼の地形が変わったのは、昭和六年から始まった区画整理からですから、天沼と言ってもやはり沼は無かったはずです。天沼とは沼や湿地帯がたくさんある所という意味ではなく、沼地の上の台地と考えて問題ないでしょう。
杉並区の天沼で言えば妙正寺川沿いにあった湿地帯の上のほうにある台地を天沼という地名にしたと考えます。ですからこの天沼は地盤がしっかりしている所と考えます。ちなみに一年前の地震の後、屋根にブルーシートを被せた姿は阿佐ヶ谷、高円寺と比べて天沼は極端に少なかったです。
さて前置きが長くなりましたが今回は阿佐谷駅ができる経緯を森泰樹氏の『杉並区史探訪』より抜粋して紹介します。
松永うめさんは「大正九年春のある朝、馬橋の高橋清吉さんが釘を買いに来られ「昨夜は寄りあいでおそくなったので眠い」と言われたので「何の寄り合いでしたか」と聞きますと「鉄道省から馬橋稲荷様の東方(現在の杉並学院高校東側)に駅を新設するから、敷地を提供してくれとの申入れがあったので、その相談をした」との事でした。夕方主人に話しますと、びっくりしてすぐに、相沢喜兵衛さんへ飛んで行きました。(びっくりして飛んで行った理由は、馬橋の話の前に相沢さん達が鉄道省に陳情に行ったのですが軽くいなされて相手にされなかった事があったからです)
それから半年間位主人は誘致運動に夢中で毎晩のように、寄り合いに出掛けて居りました。一ヶ月位経って、駅の敷地は相沢さんが全部提供する事にして、鉄道省に陳情書を提出しましたが、「既に中野、荻窪間の中間地点と荻窪、吉祥寺の中間地点(現在の西荻駅)に新駅設置が決定済」と書類は却下されました。
青梅街道南側(現在の成田東四丁目、杉並警察署の南側)に、愛媛県選出の衆議院議員で李王殿下の教育掛りをされていた古谷久綱先生が住んで居られましたので、相沢さん、玉野さん等村の主だった方がお願いに伺い、先生を通じて猛運動を再開致しました。(中略)先生よりお宅に「鉄道省から役人が見に行く」等の電話連絡がありますと、書生さんがウチへ報せに来られ、主人は仕事を放り出して、皆さんへ知らせに飛んだものです。申請駅は、中野駅から1.5哩、荻窪から0.9哩の地点なので、余り西に片寄りすぎていますので、交渉は難航して一時はほとんど絶望視されました。先生は「申請駅と中野駅との間にも一つ駅を作る案で交渉するから、高円寺村に相談してくれ」と指示されました。両村が合意しましたので、地元選出の高木先生を加えて、新しいプランを持って鉄道省と政治的に折衝され、とうとう阿佐谷駅と高円寺駅が誕生したので御座います。」と語っていました。
又、後日談ですが、横川春吉氏の話では、「古谷さんの御力添えで、阿佐谷駅が出来たので、村のオモダチ(幹部)が礼金を包んで持って行ったが受け取らなかったので、せめて先生のお抱え人力車が楽に通れるようにと、駅からお宅の玄関までの道を整備する事になり、阿佐ヶ谷通りは両側三尺づつ、畑道は六尺づつ出し合い三間道路に致しました。これが現在のパールセンター通りです。私の家でも三尺幅で九十間出したので、父親より古谷さんの話をよく聞かされたものです」と話されました。
阿佐谷村は土地区画整理を行っていませんので、今でも中杉通りの裏に入ると曲がった道や細い道ばかりで、引越し屋のお兄さんが困惑する道路ばかりです。それなのに、どうしてパールセンターみたいな商店街が出来たか不思議でしたが、この様な理由があったのですね。
平成24年7月1日
天沼今昔物語 第十話
内田秀五郎氏について
今回の天沼今昔物語は、杉並の功労者でもあり、天沼にも大きな影響を与え、日本で最大の区画整理を行った内田秀五郎氏についてお話をしたいと思います。
天沼には、急に幅の広い道路が、また、寸断された道路が2本あります。これは、昭和六年から始まった天沼の区画整理の途中の姿です。区の計画にはまだ区画整理中とあるそうです。実は、井荻村で区画整理が行われ、その姿を見て天沼の人々も決意して区画整理を始めたのですが、大東亜戦争がはじまり途中で取り止めになったのです。誠に残念なことです。
それでは、杉並の区画整理の始まりの姿からお話をさせて頂きます。
『新修杉並区史』の土地区画整理のところに、「杉並地内でもっとも早くに組合が結成され、事業の開始をみたのは、大正十二年設立の高円寺耕地整理組合によるものである。これは、名目上、高円寺駅南側の中野に至る湿田約一万坪の耕地を整理するための事業とされていたが、その真の目的は高円寺駅新設を契機に、耕地としては利用価値の低い部分を開発しやすいように準備することに置かれていた。この事業は種々の事情から進行が大幅に遅れて、ようやく目的を完遂したのは昭和十五年のことであったが、この組合設立に遅れること約一年にして着手された井荻土地整理事業は、理想的な宅地の造成という目的をほぼ完全に達成して、昭和十年には工事の竣工をみている。」とあります。
真相を知らない人は、サーと流してしまうところだと思いますが、真相を知っている人がこれを読むと、「ああ、やはりこのような奥歯に何かが挟まった表現の記述になるのかな。公文書だから仕方がないか。」と思います。
しかし、森泰樹氏が書かれた杉並郷土史叢書『杉並区史探訪』には公文書ではないので本音の話が出ています。これを読むことにより、「どうして高円寺が遅れたか。内田氏がいかにすごい人であるか。」ということが分かります。
内田氏自身の言葉です。「高円寺区画整理組合は、大正十二年設立されたのですが、仲々うまく進まず、工事請負人が夜逃げした事などがあって中止の状態でした。昭和十三年頃、同町の大河原さんを始め有力者の方々が、何回も頼みに来られてやむなくお引き受けしました。換地清算に苦労した経験からだれにも文句言わせないように偉い人を組合長に座ってもらおうと考え、同町の町会長をしておられた陸軍少将横田定雄氏にお願いし、幸いにして組合長就任の承認を得、私が副会長になって、同十五年に完成致しました。換地清算業務も無事終了し関係者の方々に大変喜ばれました。」とあります。
『新修杉並区史』には、「高円寺の業者が夜逃げした。」とは書かれていませんし、「井荻の換地清算業務も、苦労はしたけれども最後は円満に収まった。」という表現になっていますが、実際は相当に苦労したのが『杉並区史探訪』でわかります。私は、高円寺よりどうして井荻の方が早く区画整理を終えることが出来たのかが謎だったのですが、これを読んでようやく謎が解けました。
この事から、内田秀五郎氏の人様に対する優しい配慮を理解でき、このことが私に感銘を与えたのです。
調べて行くと、内田氏は三十歳で村長になったのですが当時は直接選挙ではなく、村会議員による選出でした。ということは、若い時から人望があったことをうかがわせます。そして、その政治姿勢は一貫して、村民の為、村民の生活向上にあることが分かりました。そして、この井荻村が変わっていく姿が天沼にも、他の近隣にも影響を及ぼし杉並が生活しやすい土地へと変わっていったのです。内田秀五郎氏のそのいくつかの業績を紹介したいと思います。
1 荻窪警察署、郵便局、消防署
荻窪警察署は、昭和十年に開設された警察署ですが、荻窪駅から離れた桃井にあります。出来れば駅に近い方が良かったと私は思うのですが、たぶん駅の近くに土地が探せなかったのでしょう。それで当時井荻町長であった内田秀五郎氏に相談されて、内田氏が、「町の発展と住民の安全維持のために警察は絶対に必要である。」と小美濃工場と石寅石材店を説得し、移転して頂いた為に青梅街道沿の今のところに建設されたのです。
郵便局も、昭和十一年に天沼に開設されたのですが、昭和二十八年に現在の桃井に移設しました。消防署も桃井にありますので、たぶん同様の理由ではないかと思います。なにしろ、官庁ですから確実に税金を納めてくれて井荻町としてはありがたい存在だったと思います。
2 大正十年に村の
全家庭に電灯を設置
内田秀五郎氏のお話です。「大正九年頃より電灯を引く計画をたて東京電灯株式会社と交渉しましたが、井荻村は、東西約五キロ、南北約四キロで、約十一平方キロメートルの広さの中に、六百戸の家が点々と存在している状態でしたから、採算がとれないからと断られました。それから数十回会社と交渉した結果、幹線電柱代と工事費は村当局が負担し、引く家は各自必要な支柱をだす、各戸二灯以上申し込み、電灯料金は一ヶ年間村役場で集金して会社に納付するとの条件で、大正十年十一月に、付近の町村に先駆けて、全村の電灯が輝いた時のうれしさは今も忘れることが出来ません。」とあります。今でこそ簡単に電気を引けますが、昔は大変だったのが、この事より分かります。
3 中島飛行機荻窪工場
荻窪警察署の北側に桃井原っぱ公園がありますが、以前は日産
の自動車工場でした。その前は中島飛行機荻窪工場があったのです。この工場も内田秀五郎氏が誘致を行ったのです。『新修杉並区史』より紹介します。
大正中期頃までのこの周辺地域の工業は、さしてみるものはなかった。この区域の近代工業の先駆とも呼べるのは、大正十三年井荻村に誕生した中島飛行機株式会社である。
中島飛行機は大正六年、海軍退役将校、中島知久平が創立したもので、当初は群馬県に工場を持っていた。井荻村に工場を建てる契機となったのは関東大震災であったといわれ、「人情として生まれ故郷のある群馬県内に設けたくもあり、そうすることが機体工場との連絡も良いのであるが、天災地変や材料、下請工場との関連、軍部との交渉などについて考えると、東京の郊外に設置するのが得策であると結論された」と『巨人中島知久平』に記されている。
そこで候補地として、青梅街道沿いの地域を探し、まず中野地区・阿佐谷などを物色したが住民の反対で実現せず、結局井荻村上井草(現在の桃井)の畑地三千八百坪(のちに一万三千余坪に拡大)を買収して五百五十坪程度の工場を設置する事になる。
井荻村では、工場が出来れば村の財政を潤すことになり(なにしろ、その当時は畑しかなかった)、その面からは歓迎すべき事であったが、反面に環境悪化も付随する課題であった。そこで村当局は、中島飛行機に四つの条件をつけたのです。(これは環境アセスメントの走りです。驚きです。)
1 煤煙を出し周囲の木立を枯らすことのないようにすること。
2 音響振動等のため小学校児童教育に支障のないようにすること。
3 溶鉱炉による悪ガスを発散し、人体、耕作立木等に害をあたえないこと。
4 地下水の使用によって周囲の井戸水が枯涸することのないようにすること。
以上『新修杉並区史』の抜粋ですが、この条件のおかげで、大正十四年秋には工場が完成し、当初は七十名~八十名の従業員であったのが、翌年には従業員二百名という大工場に変身していきました。畑しかないところに最先端を行く会社が出現したわけであります。税金を納めてくれ、村民を従業員として雇ってくれる会社であったのです。当時の村民の現金収入は、朝早く起きて荷車に積んだ野菜を、淀橋や神田、遠くは日本橋まで運んで得ていたのが、雨が降っても問題ない現金収入の道が得られたのですから大変な変化だったと思います。ちなみに中島飛行機工場では、ゼロ戦のエンジンの開発と製造が行われていました。
中野、阿佐谷が断ってくれたおかげで、いまでは防災公園が杉
並に生まれています。また、蛇足ですが日産社長のゴ―ンさんの改革で日産工場が売りに出された時、杉並区でも購入に動きましたがお金が無いのであきらめていましたが、当時の山田弘区長が当時のて頂きました。そのおかげで日産荻窪工場が桃井原っぱ公園に生まれ変わりました。内田氏の知恵が公園に変わったと言えるのではないでしょうか。
また、荻窪病院は中島飛行機工場の付属の病院だったのです。この事でも私たちは内田氏の恩恵にあずかっていると思います。
以上、内田秀五郎氏について述べさせていただきましたが、まだまだ皆様に知って頂きたい業績があるのですが紙面の都合で次回以降に致します。また、誤りやご指導がありましたらお電話でも結構ですのでご連絡頂ければ幸いです
平成25年7月1日
天沼今昔物語 第十一話
内田秀五郎氏について2
昨年の社報で内田秀五郎氏について、1荻窪警察署、郵便局、消防署 2大正十年に村の全家庭に電灯を設置 3中島飛行機荻窪工場、についてお話ししましたが、今回はそれ以外の事も少しお話しさせて下さい。
4 産業組合(現在の信用金庫みたいなものです)
東京府は各地域の産業の振興、民力涵養、民生安定を図る為に、大正五年から産業組合に関する講習会を開催して、積極的に組合育成にのりだしました。
井荻村村長である内田秀五郎氏は、明治四十二年に組合員数二十八名の小規模な『井荻信用購買組合』を組織し運営していましたので、その必要性を強く感じていました。その為、大正五年一月の東京府産業組合講習会にいち早く参加し、産業組合が産業振興上いかに大事であるかを再確認しました。その為に『井荻信用購買組合』を解散して、井荻村全区域を対象にした大組合の創設を決意するのです。
ですが、この決意から組合創立までの事情は必ずしも簡単ではありませんでした。内田氏は、農会の系統組織を通じて、あるいは部落実行組合と気脈を通じて、産業組合の必要性をていねいに、ていねいに説いて回り、大正七年十一月に、有限責任 井荻信用販売利用組合を設立し、事務所を役場内に置き事業を開始しました。
和田掘内村、杉並村信用組合より2年早く立ち上げたのです。
また、産業組合の主な業務は資金の貸付、貯金取扱、物品購入等で、この組合が後の、平成信用金庫、今の西武信用金庫に変わっていきます。
5 区画整理の始まり
内田秀五郎氏は、明治四十年から村長、町長を二十一年間やられましたが、明治の井荻村はポッツリポッツリと家がある程度ののどかな村でした。そして道といえば曲がりくねって、急な坂が多く、また側溝が浅い為に水の流れが悪く、ひと雨降ると道路がぬかるみになって歩くのも困難な状態でした。そうなると荷車を動かす事も出来ず、立ち往生して積荷の大根を人が背負って運ぶ事もよくありました。村長であった内田氏はこの姿を見て胸の痛む思いをしましたが、貧弱な村の財政では、道路の整備などは思いもおよばすわずかに砂利をまく程度でした。
このような状況の中で、大正十一年七月に地主さん達の協力で鉄道省へ駅敷地四百三十坪を寄付して、西荻窪駅が出来ました。しかし、駅から青梅街道までは幅3mのアゼ道だったので、これを12m道路にしようと関係地主に相談したのですが、大地主のKさんが「自分だけ損をするのは嫌だ」と反対した為に難航し「全村の耕地整理をして、道路を整備すれば負担の公平になる」と説得し協議を重ねたのです。平成26年7月1日 発行 (3)道路を整備すれば負担の公平になる」と説得し協議を重ねたのです。
「耕地整理をすると、道路用地として耕地が減少する(当時は畑で野菜などを作って現金収入を得ていましたので、野菜などを作る土地が無くなれば現金収入が減るのです)。そして、工事費の負担金を出すのでは、生活上の脅威だ」と反対する意見が多くて、なかなかまとまりませんでした。
しかし、「道路が良くなれば農作業が楽になる。土地の利用効率が高くなるから減少分はカバーできる。負担金は心配するな」と夜明かしで、協議会というより説得会を重ねて事を運んだのです(大正七年の信用組合設立の時の経験が生きてきたのです)。
十年余の年月をかけ区画整理を行った結果、大小の道路が縦横に走り、さらには湿地を埋め、高台を削り、妙正寺川や善福寺川などの水路も治められて素晴らしい環境の宅地が造成され、さらに町名地番も解り易いように改正されました。
今となっては、道路により区画が整理されていますので、防犯上からも防災の点からも安心できると、地価が上がって来ています。
6 善福寺公園
春の桜が咲くころにはお花見で、天気が良い時はお散歩で、また、ラジオ体操やランニングなどで私たちが良く使う善福寺公園。この公園の都立公園化に尽力したのも内田秀五郎氏なのです。始めから公園があったわけではないのです。
都立公園の第一号は、明治公園(国立競技場等がある神宮外苑)で大正十五年に出来ました。その後昭和五年に善福寺、洗足池、石神井、江戸川の都立公園が出来たのです。今でこそ公園の意義は大きいですが、当時は余暇というものは一般の人々にはありませんでしたので、地主さん達に掛け合ったり、個人々に土地の寄贈お願いしたり、やっとのことで公園が出来たのです。本当にこの公園も杉並に住む人々の宝になっています。上智大学名誉教授の渡辺昇一さんもこの公園の側に家が欲しいと土地を求められて住まわれています。この様な知識人が住まわれると荻窪の文化水準も上がってきますね。
内田秀五郎氏の銅像がこの公園にありますので、今度行かれたらぜひ拝んで下さい。よろしくお願いします。
以上二年に渡り内田秀五郎さんの業績を述べて来ましたが、本当にこの方がいなかったら杉並の発展は無かったと思います。
この業績を年代順に並べて見ますと、産業組合T7、電灯T10、区画整理T11、中島飛行機T13、善福寺公園S5、警察署S11年、明治から大正、昭和にかけての村長、町長さんが内田氏で本当にありがたいことだったと思います。この井荻村を杉並村、和田堀内村がまねて、目標にして各村ががんばってきたので、今の杉並がある事を忘れてはいけないと思います。
平成26年7月1日
天沼今昔物語 第十二話
荻窪駅開設等について
天沼今昔物語 善福寺公園 今年の一月に杉並郷土史会主催の「中央線誕生~甲武鉄道物語」という講演がありました。その際面白い事を聞いてきましたので今回はそのお話をさせて下さい。
1 荻窪駅開設について
甲武鉄道(現・中央線)が開業したのは明治二十二年で、その二年後に荻窪駅が開設されたのですが、「二年後に開業するなら最初から作れば」と思われませんか?やはりそこには訳があったのです。
甲武鉄道は青梅街道と交差していますので、当初から荻窪駅を作る必然性があって、荻窪駅用地の寄付(当時は全ての駅が寄付でした)を地権者の四名の方にお願いして、三人の方は了解したのですが、最後の一人が「あなたたちは駅に寄付しても生活が出来るだろうけど、うちは寄付したら生活できなくなる。」と反対したのです。
それで今度は阿佐谷村に話を持っていくと、やはり「先祖代々受け継いできた土地は手ばなせない。それに俺は入り婿出し。汽車は金持ちが乗るものだ。貧乏人には関係ない。(汽車が走りだした頃はどこでもこの様な感覚だったのですね。)」と反対者が一人いました。
この様にそうこうしているうちに甲武鉄道が開業したのです。それで荻窪の反対した人に、「荻窪駅の雑貨屋をあなたの独占にするので、その利益で生活するのはどうですか。」と、再度お願いしたのです。それで、開設した、境(現・武蔵境)と立川駅の店を見に行って、「これなら生活できる。」と、土地を寄付してくれたのです。青梅街道は荻窪駅の北側にありますが、その反対した人の土地が南側でしたので、南側に雑貨屋を作る必要があり、それで、荻窪駅の改札口は南側になってしまったのです。
北口が出来たのは、内田秀五郎さんが誘致した中島飛行機工場(現・桃井原っぱ公園)が大正十四年に出来て、当初は七十名~八十名の従業員であったのが良く年には二百名という大工場に変身していきました。その為に北側に改札口を作る必要性が強くなり二年後の昭和二年に開設されたのです。
2 甲武鉄道の電化
明治三十七年に、万世橋・中野間の電化が完成し、日本の普通鉄道で初めて電車の運転を行いました。そして、中野・吉祥寺間は大正八年に電化が完成しました。電化が何をもたらすかというと、汽車は加速力が鈍い為にすぐには動けません、電車は加速力がある為にこまめに停車しても時間はかからないという利点があるのです。それで大正十一年に中野・吉祥寺間に、高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪駅を新設する事が出来たのです。
3 東中野・立川駅間の直線ルート
朝日新聞社「中央線~東京大動脈いまむかし」に、「中央線が直線なのは、地元住民の反対にあったので、第三案で、いやいやながら実現した現路線であるという。(中略)『反対運動で頭にきた技師の一人が、勝手にしろと定規を地図の上に投げ出した。たまたま落ちたところが現路線だったわけさ』こんな笑い話が、いまも国鉄内部に生き残っている」とあるのですが、今回の郷土史会では、そうではないのでは?と説明がありました。
鉄道ファンとして知られる、地理学者の青木栄一氏の著作「鉄道忌避伝説の謎」平成18年11月によると、「台地上に一直線に、しかも25キロという長い距離にわたって引けたということは、鉄道側にとって理想的な線形であり、地形的には何の障害もなかった(中略)。したがって、甲州街道筋の宿場町で反対されたから仕方なく台地上を走るようになったのではない。甲武鉄道の最終的な目的地は甲府であって、府中や調布程度の町は、建設ルートに入ろうが、脱落しようが、土木技術者の立場では問題にならないのである。現在までに、甲武鉄道のルート決定の経緯を記した文献は見つかっていない。甲州街道筋で反対されたから、仕方なく(現ルートの)大地を走るようになったのではない。」
驚きでした、私も大学生の時に朝日新聞の「地元の反対で一直線になった。」とのコラムを読んでこの時までそのように思っていました。
青木先生の説明によれば、「江戸時代に栄えた各地の宿場町に、鉄道の駅が出来なかった理由を伝える話が残っていて、それが、戦後十分な検証もされずに地方史に編纂されたからだ」と言われています。
重ねてですが当時の鉄道局が残した資料も紹介します。
「線路は東京府南豊島郡角筈村において、日本鉄道会社の品川・赤羽線(現在の山手線)の新宿停車場から分岐し、神奈川県南多摩郡八王子宿を終点とする延長23マイル8チエーン(37.2キロ)で、その方向は新宿停車場を出て左折して西行し、柏木・大久保の両村を経由して中野村に至り、それより高円寺・馬橋の諸村を過ぎて、青梅街道を横断して荻窪・境・小金井・国分寺・谷保等の諸村を経て立川村に出る。このうち中野より立川に至る15マイル(約24.1キロ)の間は一直線である。 立川において左折して多摩川を渡り、日野宿に出て甲州街道を横断し、さらに左折して豊田村に至り、右折左転し大和田村を過ぎて浅川を渡り、また右折して西北に向かい八王子に達する」(鉄道局「工事要路」大正10年 路線記録)とあります。
やはり最初から一直線に計画されていたのですね。
4 お茶の水駅の建設
明治四年に小石川に陸軍砲兵工廠が建設され小銃等の兵器を作っていました。その運搬の為に陸軍の要請でお茶ノ水まで鉄道を延ばしてくれと要請があり、甲武鉄道としては「直線」で結ぼうと考えましたが、陸軍が、「戦争の時の停車場で困っているので、青山練兵場へ新宿から回して欲しい。」とあり、千駄ヶ谷を経由して、赤坂御所と学習院の間の所に隧道を掘り、お堀に沿ってお茶ノ水までの甲武鉄道市街線が完成したのです。その後陸軍が兵員や軍需物資の輸送に利便を図る為に明治三十九年に国有化されました。ちなみに、日本鉄道奥州線は明治四十二年に国有化されました。
5 余談:東京駅について
天皇陛下に馬車で、上野や新橋に行幸されるのは申し訳ないと、上野発の日本鉄道奥州線と、新橋発の官鉄東海道線を結ぶ高架鉄道の計画が明治二十九年に立案されました。しかし、日清、日露の戦争の影響で遅れ、荻窪駅が出来て二十三年後の大正三年に皇居の前に東京駅が開設されました。
平成27年7月1日
天沼今昔物語 第十三話
天沼熊野神社前「文化人エリア」散策
今回の天沼今昔物語は、杉並郷土史会会報 平成27年7月第252号に掲載されました『天沼熊野神社前「文化人エリア」散策』が非常に具体的で面白かったのでぜひ皆様にご紹介をさせてください。( )の中は私の補足です。
天沼熊野神社は、天沼二丁目の閑静な住宅街の中にある。区内の他の三つの熊野神社、和泉・堀之内・尾崎が、いずれも川沿いの台地上にあり、神社として祀られるべき場所にふさわしい地形にあるが、ここだけはちょっと不思議な立地になっている。
隣接する下井草、清水が、井荻土地区画整理事業によって、整然とした区割りになっているのに、天沼に入ると道路がまるで迷路のよう。必ず迷って右往左往、一度にすんなり神社までたどり着いたことがない。マイカーが普及するまでは、人間の営みから生まれた本来の街並みはこうであったのであろう。緑多い閑静な住宅街になっているのは、熊野大神の御神徳が行き渡っているからであろう。
その落ち着いた雰囲気に魅せられたのか、多くの文化人が周辺に住んでいた。会報250号で荒井氏が書かれているように、熊野神社前の道路は「文士街道」と呼ぶにふさわしい。ちょっと訪ねてみよう。
まず最初に、天沼熊野神社に参拝してご挨拶申し上げ、出発。神社を背にして右側(西)に行くと一軒おいて茶色の塀をめぐらした大きな家が日本画の巨匠・橋本明治。文化勲章受章。明治三十七年~平成三年。
先に進むと作家・藤原審爾。大きな甕カメが門の前に置いてあり、瓦屋根と漆喰の白壁が美しい。外村繁に師事し、「煉獄の曲」が河盛好蔵に認められる。「罪な女」で直木賞、趣味は陶芸。大正十年~昭和五十九年。
さらに行くと作曲家・草川信。ヒマラヤ杉と大きな棕櫚(しゅろ)の木のある立派な洋館。「ゆりかごの唄」「夕焼け小焼け」。私の近所の方は、草川信の御子息に中瀬中学で英語を教えてもらったそうだ。
さらに足を延ばして、日大二高通り・税務署の隣に下宿「碧雲荘」。太宰が住んだ家でそのまま残っているのはとても貴重。(残念ですが、現在は大分県の由布院温泉に移設中です。)
神社に戻って左側(東)へ行くと、歌人の鳴海要吉。「やさしい空」「土にかえれ」。青森より上京、田山花袋の書生となる。「和日庵(わひあん)」と名づけた自宅で晩年を過ごす。同郷の棟方志功とも交流があった。
道路隔てた一軒隣が上林暁。「聖ヨハネ病院にて」「白い屋形船」。脳出血で半身不随となるも口述筆記により執筆活動を続けた。明治三十五年~昭和五十五年。表札も取られ、建物は取り壊されるそうだ。(表札はありませんが、妹さんがお住まいです。)
神社より左へ出てすぐの交差点を右へ(南)天沼二丁目十四を右へ。大きなガレージのある家が、フランス文学者の河盛好蔵。文化勲章受章。「フランス文壇史」で読売文学賞。
荻窪駅方面に向かい、自転車置き場辺りが、昭和八年井伏を慕って引っ越してきた太宰の住んだ場所。その細い路地の奥まったところが伊馬春部の旧居跡。ムーランルージュ新宿座で上映され、大変な話題になった「桐の木横町」。井伏鱒二の著書に「現在の天沼三丁目二番地、三番地当たり、伊馬君のうちや太宰君たちのうちには、家主が一軒に一株ずつ桐の木の苗を植えるのが作法だとされていた。」とある。この横丁がどこなのか、いまでは定かではない。
さて、散策する場合は必ず次の注意事項を守ってください。
〇ご子孫、関係者が現在もすんでおられるので、プライバシーを侵害しない事。
平成28年7月1日
天沼今昔物語 第十四話
玉川上水の話
私は以前、玉川上水のすぐそばで地鎮祭のご奉仕したことがあります。そのとき、施主様に「此処の地盤は絶対に大丈夫ですよ。なぜなら、すぐ横に360年前の玉川上水があるのですから」とお話したことがあります。その時に、以前聞いていた、太宰治が玉川上水で入水心中した(昭和23年)ということに、「あんな水量で心中する事ができるのかな」と疑念を持ちました。それで今回、玉川上水を調べてみようと思いました。
玉川上水は、三代将軍家光公の「参勤交代」と「大名正妻・嫡子の江戸在府」制度により、諸国の武家が江戸の町に集まってくるとともに、その生活を支える町人が増え、江戸の人口は増加し、水需要が増大しました。この江戸の都市化に対して、神田上水に加え新たな上水の開設が必要となり、江戸の町や武蔵野台地の村々へ飲料水や農業用水を供給するために造られたのが玉川上水です。今から364年前、1654年に、玉川兄弟により8か月で43kmを掘りきったのです。延べで22万人、一日当たり1000人になります。3交代で24時間のビッグプロジェクトでした。今でいえば圏央道や新東名の建設に相当するビッグプロジェクトです。夜の作業では、提灯を使い、高低差や直線を測定するためには線香を使って測ったり、また、工事予定地をいくつもの区間に分けて同時に掘り進めたそうです。
玉川上水の水の半分は江戸へ、半分は武蔵野台地の33ヶ所の分水へ流され、農家では、大根や葉物は江戸までもたないので保存性があって高く売れるものとして小麦を作っていました。この小麦粉による「つるつると呑んで噛んで食べるウドン」が「つるかめ、つるかめ」とゲンが良いということで、お祝い事などでウドンを食べることが流行ったそうです。天沼村でも平成のはじめころまでみんなが集まってうどんを食べる風習がありました。私はなんでウドンを食べるのかよく分かりませんでしたが、今回の事で分かることができました。
水を取り入れる取水堰(しゅすいせき)は青梅市手前の羽村駅から歩いて10分の多摩川沿いにあります。ここに決まるまでには紆余曲折があり、当初は日野から取水しようとしましたが、試験通水を行ったところ関東ローム層に水が吸い込まれていき不適、2ヶ所目は福生を取水口としましたが岩盤に当たり失敗、3ヶ所目として羽村が選ばれ、最適な地点と判断されました。現代の河川工学でもすべての条件に合致した合理的な場所だそうです。その理由は、①強固な河岸②対岸の湾曲部に水が当たり水流が弱まる③取水口は堰(せき)の先端にある。という事だそうです。「今から360年前によく見つけたものだな~。よく考えたものだな~」と感嘆してしまいます。
この堰(流れを制御するために河川などを横断して造られる構造物)は丸太と竹と石で作られ、できるだけ多くの水を江戸に送るために水流を多く堰き止めていますが(90%取水、10%下流の多摩川に流す)、増水時には堰全体が壊れないようにして水を流すという三段構えの安全装置も設けられていました。例えば、丸太を単に渡した投渡堰(なげわたしせき)という堰がありまして、普段は水をせき止めて水門に導いているのですが、増水の時は丸太を取り払って多摩川本流に水を流して、水門や土手を壊さないように造られています。2年前にも増水した時に5回壊したそうです。簡単に造れて、簡単に壊せるように造られています。何しろ今でも現役で、東京の上水源の1/3ほどを占めており、西部拝島線の玉川上水駅そばの小平監視所から埋設鉄管によって山口貯水池(狭山湖)・村山貯水池(多摩湖)へ送水され、最終的には東村山貯水場で利用されています。
玉川上水の経路は、大雨の時に他の川の水が入ってこない様に武蔵野台地の尾根に沿った高い処が選ばれました。羽村→奥多摩街道に沿って南下→拝島駅の地下を通ってから東へ→西武拝島線に沿って→玉川上水駅→小金井街道に沿って→三鷹駅の地下を通って→井之頭公園のグランドと林の間を横切って→國學院久我山高校の北側を通って→富士見丘小学校西側の浅間橋から先は、中央自動車道建設の為に地下に潜っています。その後は、中央自動車道に沿って、桜上水駅北側の遊歩道の地下→明大和泉キャンパスの東側で井之頭線を太い鉄管で越え→日大鶴ヶ丘高校南の水道道路の地下を通り→新宿の文化学園前→四谷大木戸門(今の新宿御苑大木戸口)から江戸の町に流れていきます。これより先は、地下に石や木で作られた樋(とい:今の水道管)によって給水されました。この樋を神田川の上を通すために造った橋が水道橋と呼ばれました。水道橋駅の由来です。御茶ノ水駅と水道橋駅の真ん中あたりに以前は架かっていました。御茶ノ水駅そばの本郷2丁目に東京都水道歴史館があり実物や模型を見ることができます。
玉川上水は江戸幕府により厳重に管理されてきましたが、明治政府になって管理が緩み汚染が多発し(放尿等)、明治19年にコレラが流行して上水道の管理が問題となり、水道の近代化が求められるようになりました。明治26年に降水源地としての多摩地域の管理が認識され三多摩地区が神奈川県から東京府へ移管されました(これから杉の木の植林が始まりました。現在のスギ花粉の元でしょうか?)。水道の近代化の為に、明治31年に淀橋浄水場が完成しました。この為、玉川上水の杉並区和泉から四谷大木戸口へは取りやめ、杉並区和泉から淀橋浄水場への新水路を施設しました(淀橋浄水場が廃止され、環七の泉南交差点から新宿への一本道が施設されました)。この後は玉川上水の水を濾過(ろか)し、鉄の水道管にポンプで圧をかけて送るようになりました。
昭和40年に東村山浄水場が設置され、淀橋浄水場が廃止されました。それまでの玉川上水は今の水流とは違って水が豊富に流れていて、今とは違った姿が見えていたのです。これにより、小平監視所から先の玉川上水は使われなくなり空堀や、公園や、道路に変わっていきました。そうした中、その歴史的意味や貴重な緑地としての価値を認めて、玉川上水を保存しようとする運動が広がり、東京都の清流復活事業により、野火止用水に続き、昭和61年、小平監視所から先へ下水処理場で浄化した水を流し、都市の中の憩いの場として復活させたのです。
天沼村と玉川上水の関りは、玉川上水から分水された千川上水、その千川上水から分水された相澤用水(阿佐谷村の相澤さんが天保年間に開設)、その相澤用水から分水して谷戸川(今は暗渠の桃園川)に水を引き田んぼ等で使っていたという関りがあります。ただし水量が少なかったために米が固くて旨くなかったそうです。
以上玉川上水についてお話をさせて頂きましたが、ご指摘、ご指導がありましたらよろしくお願い致します。
平成29年7月1日
天沼今昔物語 第十五話
熊野三山、天沼熊野神社
1.熊野三山について
熊野神社は全国に数多く鎮座されていまして、社の数では全国で5番目に多いお社です。一番多いお社は八幡神社で、次に伊勢、天神、稲荷に続き熊野神社となります。 次は、諏訪、祇園となります。 杉並区でも熊野神社は4社鎮座されていて、和泉熊野神社、堀之内熊野神社、尾﨑熊野神社、そして天沼熊野神社です。 杉並区には25社鎮座されていまして、そのうちの4社が熊野神社で、やはり熊野神社は杉並区でも高い比率だと思います。 また、私たちがよく知る氷川神社が、全国神社ランキングにありませんでしたが、これは、埼玉県大宮市の氷川神社が氷川神社の本宮ですので、氷川神社は全国的ではなく関東で広く信仰されている神社なのです。
さて、熊野神社の本宮は、紀伊半島の熊野三山になります。 今では、熊野本宮大社、熊野速玉(新宮)大社、熊野那智大社とはっきりと区分されていますが昔は三社合わせて熊野三山や熊野権現と言われていました。 熊野三山と言われる様に、熊野三山は山奥の奥に鎮座されていまして、今でもお参りに行くのは大変なお社です。しかし、最近はインフラが整備されて、紀伊白浜空港から高速道路を使い前よりは東京からでも楽に行けるようになりました。 また、パンダが沢山いるアドベンチャーワールドも途中にありますのでお子様もご一緒にお参りください。
2.熊野三山について— 山中他界思想 —
神代の昔から日本には、山中他界思想というのがありまして、人里離れた山奥に入って修業をすると不思議な力を得ることが出来たり、違う世界に行くことができるという考えがありました。 そして、紀伊半島の熊野には、黄泉の国、死者の国への入口があると考えられ、イザナミの尊の葬地があると日本書紀にも記されています。 青岸渡寺というお寺が熊野那智大社の横にありまして、読んで字のごとく、ここから海を渡って浄土に旅立って行ったのです。 また、熊野の山中で山法師が修業を重ねたり、また、山の神の力により仙人になれるとか、実際に日本初の仙人は役小角でこの紀伊半島でも修業したのです。
平安時代には、和泉式部が熊野詣をした時に、あと一里というときに月のものになってしまい、参拝できない悲しみを和歌に詠んだところ、その夜に熊野権現が夢枕に立ち参拝を許したという話もありますし、「巫女おろし」とか「神降ろし」など亡くなった人の声を聞くことができる巫女、わけても熊野の巫女は、霊験あらたかであるといわれ、また、江戸時代には、熊野で修業した修験僧たちが祈祷をして今でいう占いを行ったりしていました。
余談ですが、末法の世になるとそれまでの宗派では浄土へ行けないと新しい宗派が起こりました、その中の一つで、開祖一遍の時宗があります。 一遍という名には、阿弥陀仏の名を一遍でも称えれば、その証として悟りが得られるという意味が込められているのです。 一遍は各地で念仏札を配り始めるのですが、ある僧から「信心してもいないのに、お札を受け取ることはできません」と、念仏札の受け取りを拒否されてしまいました。
このことに一遍は大きなショックを受けて、熊野本宮で「信心の無い者にはどうすればよいのか」と、思い悩んで願をかけたところ、夢枕に阿弥陀如来が熊野権現の姿で現れ、衆生を救うために「信があるとか、信がないとかを選ばず、浄を好み、不浄を嫌うことをせず、その札を配るべし」という夢告を受け、これで意を決して一遍を名乗り、「決定往生 六十万人」と加筆したお札を配り始めたといいます。
何事も経験しないとわからないことはたくさんあると思いますが、私も熊野様のお告げを聞いたことが一度あります「お前が社を建て替えろ」です。 また、幽霊を我が家に招き入れたことが一度あります。
キリスト教も、復活したイエスを弟子たちがその姿を神の子と見て広めたのですし、マホメッドも、アラーの神の声を聞いてイスラム教を広めていったのです。経験したことがない事や、見えないものはなかなか信じてもらえません。 でも、みなさんも背中に視線を感じて振り返ったことは無いですか。 余談でした。
さて、熊野三山の、深い山々、滝、川などの自然の力が、修業する人々に研ぎ澄まされた力を与え、熊野で修業したという言葉だけでその人の力を信じてもらえたのです。
熊野三山のご利益としては、現世利益、次に述べますが上皇様たちがこぞってお参りしたのは、現在の生活と次の世界への平安な旅たちを願ってではないでしょうか。
3.熊野神社が全国に広まったわけ
さて、熊野神社が全国に鎮座した理由の大きな理由は、平安時代に末法思想(※)が広まり、そして浄土信仰が浸透し、また、神代からの日本の神様に力を求めたのです。 特に、死者の国につながる紀伊熊野三山に行って来世は必ず浄土へ行けますようにと上皇様たちがお参りに行かれたのです。天皇様は現世の守護なので黄泉の国の入口の熊野三山へはお参りには行けません。 907年から約100年の間に6人の上皇様が延べ96回もお参りされています。特に宇多上皇は千日滝籠りという事で那智の滝に千日間打たれたそうです。 気絶して流されることもあり滝守に助けられることもままあったそうです。
鳥羽上皇は21回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回も熊野訪をなされていて、ですが、上皇様お一人でお参りするわけではなく、お供として貴族や女官などを大勢従えて、途中の休憩では、歌会などを行って100日ほどかけて行かれたのです。そして、お参りの時には、私たちでしたら賽銭箱に千円札を納めればたいしたものですが、上皇様たちは所領の一部を熊野様に寄進されたのです。そうすることにより、そこの村の収穫が熊野様に上がってくるのです。そして、御師(御祈祷師:神主の代理人みたいな人)がその村に行き、熊野那智参詣曼荼羅を使って熊野権現の話をしたり、その村に熊野神社を建立したり、お札を頒布したり、熊野三山に案内したりしたのです(伊勢では御師と呼びます)。
上皇様の荘園は全国にありますので、その寄進された荘園に熊野神社が建立され、この為に熊野神社が全国的に広まったのです。
4.天沼熊野神社
ところが 、天沼の熊野神社はこの様な縁起ではなく、後鳥羽上皇と足利尊氏の戦いの後に、吉野の朝廷と京都の朝廷のふたつの朝廷が南と北にある南北朝時代があり、その後56年経って南北朝が合一されたので、朝倉さんは、このまま南朝方にいては危ないと、その紀伊半島から、熊野様のお札を持って、舟に乗って(熊野水軍があり、房総半島と行き来していました。今でも熊野本宮の宮司九鬼さんはこの熊野水軍の末裔です)東に逃れて三年後、今から623年前(1395年)この天沼の地にたどり着いた朝倉さんは、お武家さんはもういやだと百姓になり、この地に居ついて、お札を祭り勧請したのが熊野神社の始まりです。当初は寶光坊という庵、その後は十二社権現、明治になって熊野神社と改名しています。ご祭神は伊邪那美命です。
天沼村には、3社鎮座しています。620年前に熊野神社、430年前に八幡神社、400年前に稲荷神社です。この為一番古い熊野神社が天沼村の総鎮守で、明治7年、明治政府に村社として定められました。
熊野三山のご神徳は遠い神代の御代より続いています、現世利益:厄除け、子宝成就、交通安全、家内安全、心願成就などです。あなた様も天沼熊野神社を通じて、遠いとおい熊野三山に願いを叶えてみませんか。
ご意見ご指導をお待ちしています。
熊野那智参詣曼荼羅の写真掲載については那智大社の許可を頂いています。
※末法思想
末法元年1052年:仏が亡くなって千年過ぎると仏の教えのみがあり、正しい修行も悟りも得られなくて人々が救われない世界になる。簡単に言うとお経の力が無くなり無事に浄土へたどり着けなくなるという事
平成30年7月1日
天沼今昔物語 第十六話
大嘗祭について
1.始めに
いつもは、天沼の事などをお話ししていますが、今年は、天皇陛下の4月30日の譲位、5月1日の即位と御大典が行われ、10月22日には即位の礼、そして、11月14日の夜半から15日の明け方にかけては天皇陛下一代一度の行事であります大嘗祭が斎行されます。今回は、この大嘗祭の私が興味を持ったことについてお話をさせてください。
2.参列者について
私が平成2年の大嘗祭で一番興味をひかれたのは、11月の寒い時期、夜半から朝方まで900人の方々が、陛下が何を行っているか何もわからない暗闇の中で、皇居の風が吹き抜ける寒いテントの下で参列されたことです。
今回も、大嘗祭は、夜半から明け方にかけ、2回執り行われるお祭りです。天皇陛下は14日の午後6時に大嘗宮に入られます。ですから、これより前、午後五時には参列者の方々は幄舎(あくしゃ)(仮設のテント)に着座されなければなりません。
天皇陛下は、午後7時に悠紀(ゆき)殿の御座にお着きになりお祭りを始められます。その後各員が退出するのは9時10分頃になります。
この後4時間ほどお休み頂いて、15日の午前零時半に天皇陛下が再び大嘗宮に入られ、主基(すき)殿でお祭りを終えて退出するのが午前4時30分頃になります。
この参列者の方々は、三権の長を始めとして、各国の大統領、大使などで、今回は夜半にかけては721人、朝方にかけては520人ほどが参列されるそうです。秋の夜から朝にかけて8時間も皇居東御苑の風の吹き抜ける仮設テントに座っているご高齢の方々を想像するだけで身震いします。しかし、そのような中でも、日本の伝統的な神事を見てみたいと世界中から多くの方々がお出でになるのです。日本の素晴らしい一面を感じて頂けるだけで、ありがたい限りです。
3.お供え物と供饌(きょうせん)と直会(なおらい)
天照大御神に陛下が、お供えをするのですが、これらの物は全国から奉納されたものです。これらを、体育館みたいな大きな部屋のテーブルに並べて選りすぐった物をお供えするのです。
陛下は、「平手」という柏の葉で作った皿に、陛下が自ら箸を使って、米、粟や黒酒(くろき)、白酒(しろき)、海産物の生もの、干した魚、海藻の汁物、そしてアワビや果物などを盛りつけられます。これを供饌と言います。この箸で行う作法が500回以上もあり、夜半、朝方の二回ですので、1000回以上も行われるのです。
これらのお供え物を、伊勢の方に向けてお供えしてその後方に座られて頭を下げるのです。この時に「をう」と応答します。これは序列の下の物が応答する「称誰:ゐしょう」という作法です。この作法は一生に一回この時だけの作法です。天照大御神様に食事の用意ができました、どうぞお召し上がりくださいとおっしゃっているのです。この後に、ご自身も米、粟、白酒、黒酒を食されます。これを直会(なおらい)と言います。
さて、なぜに粟を食べられるのでしょうか。私は、今までに食べたことがありません。どんな味なのでしょうか。おいしくないのでは? 調べてみたら、粟は、やはり美味しくはないそうですが、腹持ちのする食べ物で、飢饉対策には最も適した食物だそうです。
また、稲の生育は天候に左右されることが多いのですが、粟は稲より太くて強いのだそうです。収穫時期も違うためリスク回避にもなります。お米が飢饉で全滅しても粟なら残る。これを食べて来年の米の収穫まで我慢する訳です。現代人は、一回、二回の失敗でへこたれてしまいますが、昔の人々は失敗が当たり前と言う生活でしたので色々なセーフティーネットを持っていた訳です。
では、なぜ天皇陛下が大嘗祭で稲とともに美味しくもない粟も食べられるのか、「公民:おおみたから」である国民が、米だけでなく、粟も食べないと生きていけなかった時代があったから、そのことを忘れないために、今では食べている人がほとんどいなくても粟も食されるのです。
御所では、稲だけでなく、粟も育てられているそうです。
陛下が、お供えして、食事を共にされる場所は、宮中の東御苑に作られた仮宮ですから、玉砂利の上に食薦(板や竹で編んだ敷物)を敷いているだけですから痛いはずなのですが、そこで、供饌と直会で2時間以上も作法を行うのです。非常に痛いはずです。しかし、前回の大嘗祭で陛下の指導をされた方からお話を聞きましたが、修礼(事前練習)で2時間ほど、食薦の上に正座されてご説明をしましたが、「此処はこれでよいのか?この祝詞のこの言葉の意味は?」とご下問はありましたが、痛いという言葉はありませんでした。と言う事でした。向こうずねには、何か跡がついているのではないかと思いますが。
4.中の卯(卯:十二支のウサギの事)
11月の中の卯の日に大嘗祭を行うのですが、中の卯とは十二支の子(ネズミ)、丑(ウシ)、寅(トラ)、卯(うさぎ)の二回目の卯の日と言う意味です。陛下の最初に行う新嘗祭を大嘗祭と称し、宮中に大嘗宮という仮宮を作って行われる規模の大きな新嘗祭なのです。
今は、11月23日の勤労感謝の日、固定された日に新嘗祭を行いますが、これは、明治になって西洋歴を使い始めた時の最初の11月の中の卯が23日だったので以後11月23日に新嘗祭が行われるようになりました。しかし、大嘗祭は、11月の中の卯の日に行うと言う事で、今回は11月14日から行われます。
5.大嘗祭の秘儀は無い
私が國學院大學の専攻科に入学した平成2年、学内ではあることで大変なことになっていたようです。それは、國學院の岡田莊司教授が、國學院の大先輩である故折口信夫先生の論文は違っていると発表したからです。
昭和の大嘗祭の際に、天皇が資格完成の為、中央の神座にある真床覆衾をかぶり、これを取り除いた時「完全な天子様」になると論じた。このことを否定したのです。
岡田先生は、中央の神座は大神が来臨し泊まる神の座であり、天皇といえども入ることのできない見立ての座(神が休まれる場所)であると論じました。これは、神と天皇との間には、侵すことのできない明確な上下関係があったことを論じて、折口マトコウフスマ論をはじめ、数多くの寝座秘儀説を完全否定したのです。
最終的には、宮内庁が秘儀などないと公表したと漏れ聞きました。
また、岡田先生は今年の三月に神道文化学部長として無事定年を迎えられました。
6.大嘗祭の意義
古代も現代も災害は恐ろしい。神を祀り災害を鎮める天皇の祭りによって、我々の心も落ち着く。大嘗祭は、陛下と我々の神に対する恐れを表しているのだと思います。
お祓い受けて、「神主の祝詞を聞いても何を言っているか分から無いけれども、最後のカシコミ カシコミ モウスだけは分かる。」という方が多いと思いますが、実はカシコミカシコミは恐美恐美と書くのです。意味は「恐れおののいて平伏する。」という意味です。私たち神主も、祝詞の最後で「私は神様を恐れています。」と言っているのです。
この恐れを表すことと、国民から奉納されたものをお供えする事での、天皇と国民との一体感が大嘗祭の意義だと思います。
ご意見ご指導をお待ちしています。
令和元年7月1日
天沼今昔物語 第十七話
甲武鉄道 四ツ谷駅について
はじめに
天沼、荻窪が住宅地として発展したのは、甲武鉄道が明治22年に新宿・立川間で開通し、その2年後に荻窪駅ができ、大正8年に東京駅(大正3年完成)と甲武鉄道が直結したことにより、東京駅周辺の高級官僚、新聞社、出版社などに勤務している人々が移住して来た事とあわせて、大正12年の関東大震災の後、被害がなかった杉並区に都心の人々が移住してきたことが大きな要因です。また、昭和2年頃、文化的な生活(電気、水道など)ができるのは荻窪あたりまででしたので、都心の方々が安全で快適な生活を求めて天沼にやってきたのです。
今回は、この町の発展に大きく寄与した中央線、なかでも四ツ谷駅に焦点を当ててお話したいと思います。
四ツ谷駅は、一番下に中央線、その上に地下鉄丸ノ内線、またその上に甲州街道があり今も車が走り、昭和43年までは都電も走っていました。
ここで、なぜに蒸気機関車が一番下を走っていたのでしょうか?
陸軍省の意図
前述しましたが、新宿・立川間が明治22年に開通して、次は新宿から東京都心への路線延伸を甲武鉄道は考えていました。甲州街道沿いと、青梅街道沿いの、直線で結ぶ二つの案のどちらかを考えていました(明治22年計画)。
また、陸軍省も、朝鮮半島での日本と清国との緊張の高まりにより、大陸に兵隊や弾薬等を輸送することが課題でした。このため、新宿から都心への直線の鉄道ではなく、新宿から千駄ヶ谷の青山練兵場(今の神宮外苑、青山墓地付近)と飯田町の陸軍砲兵工廠(兵器工場 今の小石川後楽園や東京ドーム周辺)を鉄道でつないで、兵隊や大砲の弾などを、広島の宇品港まで迅速に運ぶ必要がありました。
そのため、陸軍省は、新宿御苑の北側の直線路ではなく、御苑の南側を大きく回って新宿駅、千駄ヶ谷駅、四谷駅、牛込駅、飯田町駅につなげと要請したのでした。ところが、この計画では、宮城の一部(今の迎賓館、学習院のあたり)を通ることになり、宮内省から「宮城を通るとは不敬である」と猛反発に遭ったのです。が、前述の通り、朝鮮半島に大砲の弾や兵隊を大陸に送る必要性から鉄道の活用が必須の状況で、陸軍省が、「地面を削ってトンネルを造り元の状態に戻す」と押し切って隧道の着工となったのです。(写真❶)
日清戦争の影響
明治27年3月に新宿駅、飯田町駅間の工事に着工したところ、同年7月に日清戦争勃発、これに応えて突貫工事の末、新宿駅―牛込駅(飯田橋駅の西側の牛込橋付近)間が明治27年10月に竣工したのです。東京駅は大正3年に完成ですので、このときには出来ていません。それで、明治18年に完成した赤羽品川線を使って牛込駅、新宿駅、品川駅を回り、大砲の弾や兵隊を、広島宇品港まで鉄道で大量輸送することが出来るようになったのです(赤羽駅にも陸軍造兵廠がありました)。このときに甲武鉄道は、単線でしたが将来を見据え複線で計画していて、明治28年12月には複線化も完了させました。驚嘆すべき日本の鉄道技術だと思いませんか。汽笛一声新橋を♫が明治五年です。(余談ですが、明治37年の日露戦争の時、モスクワからウラジオストックまでのシベリア鉄道は単線でした。陸軍はロシアには人員輸送で問題があると高をくくっていたのですが、ロシアは、列車を帰さずにウラジオストクで破棄して、一方通行で兵隊などを本当に弾丸輸送したのです。)
外堀の保全
ではなぜ、宮城の土を掘り起こし、そこにトンネルを造って埋め戻し、また、四谷見附の土橋を削り、(写真❷)外堀の北と南をせき止め、四ツ谷駅を外堀の底に造ったのか。お堀の水面と線路には高低差があまりなく、大雨の時はどうするのか、設計する人は考えるはずです(実際に一度水没しています。今は排水ポンプなどで防いでいるのでしょうか?)。それでも造った。
それは、明治の初めにおいても、外堀の風致・眺望(松や桜)の保存が提唱され、旧江戸城外堀堤塘地として残されたのです。飯田橋駅付近から市ヶ谷駅、四ツ谷駅、ホテルニューオータニ付近までが公園(今でも花見が楽しめます。ありがたいことです。)とされていたのです。その為土手の上に線路を作ることが出来ずに、土手にそって土手の下に線路を作ることとなったのです。
おわりに
新宿駅から飯田町駅までの甲武鉄道は、鉄道技術者の思惑とは大きく違って、外堀付近の景観を残したい東京市と陸軍省の要望で造られた鉄道でした。
そのために中央線の四ツ谷駅は「真田堀」という外堀の底に造られ、地下鉄は、甲州街道の地面の下近くにトンネルを造ることが出来たのです。
このために中央線の上を地下鉄が通り、地下鉄の上に都電が走る3層階の四谷駅となったのです。(写真❹)
ご意見、ご指導をよろしくお願いします。
令和3年5月1日
天沼今昔物語 第十八話
日本の鉄道はじめと東京駅について
はじめに
昨年は四ツ谷駅についてお話しましたが、その際に鉄道関係の資料を読み、鉄道建設と東京駅についても知ることが出来ました。天沼今昔物語にはなりませんが東京今昔物語としてお読み頂ければ幸いです。
日本の鉄道建設の技師について
新橋駅から横浜駅までが開通したのは明治5年、上野駅から高崎駅までが開通したのが明治16年です。この鉄道建設の指導にあたったのがイギリス人技師達でした。
このため、東京の市街地の両端に新橋駅と上野駅という二つの行き止まりの駅(イギリス風)が立地する事になり、この両駅を最新の高架鉄道で結び、その中間に首都の玄関となる「中央停車場(東京駅)」を建設しようとしました。この高架鉄道を指導したのが二人のドイツ人技師でした。
なぜに最初にイギリス人技師が来て、次にドイツ人に変わったのか?ここのところからお話出来ればと思います。
アーネスト・サトウが見た長州人
アーネスト・サトウはイギリスの外交官で、19歳の時に通訳として来日し、後に日本公使、初代日本大使として25年間、幕末と維新の政情を身をもって体験しました。その彼が書き残した回想録にヒントがあると思います。サトウは佐藤とは関係なくドイツ系の父の姓であります。
生麦事件(1862年に薩摩藩の武士がイギリス人を殺傷した事件)の賠償金を薩摩に要求するために、イギリスの軍艦に乗艦して薩摩に向かい、お互いの大砲で撃ち合った薩英戦争がありました。このときイギリス軍は砲撃により町を炎上させましたが、上陸せずに帰還しました。当然サトウも薩摩に上陸してはいません。その後薩摩は賠償金を支払いました。
1863年に下関海峡を通過した、アメリカ、オランダ、フランスの軍艦や商船に無通告で長州が砲撃したため、その半年後イギリスを含む4カ国艦隊が長州と戦争した馬関戦争がありました。このときもサトウは軍艦に同乗し、陸上の砲台とも交戦し、陸上戦にも参加しました。このときの長州側の通訳の一人がイギリス密留学から急遽2年で帰国した伊藤博文でした。
サトウは、長州の武士達と交渉するうちに長州人は信用に価すると思い始めました。また、サトウは約一ヶ月の下関逗留中に絶えず上陸しましたが、「町民との間に一度も争い事は起らず、いつも丁寧で親切であった。」とあります。
「長州人を破ってからは、我々は長州人が好きになっていたのだ。又、長州人を尊敬する念も起ってきていたが、幕府の家臣達は弱いうえに、行為に表裏があるので、我々の心に嫌悪の情が起き始めていたのだ。」とあります。
サトウはイギリス軍が横浜に帰還するときに上陸して伊藤博文と会食をしています。伊藤はわざわざヨーロッパ風の食事を用意しようと大いに骨折って、テーブルを造りその上に外国製の布をかぶせ、ナイフとスプーンと箸を揃え、料理は煮た魚、白米の大もり、ウナギ、スッポンのシチュー。これらはおいしかったそうですが、アワビの煮たものと鶏肉の煮物は全く話にならなかったそうです。後の初代総理大臣伊藤博文がサトウのご機嫌取りを一生懸命行なっているのです。
サトウは伊藤の他にも明治政府で活躍する長州人と強い交流を持っていて、このときの関係が日本とイギリスの強い絆の始まりではなかったでしょうか。このために、鉄道事業を始めるときにイギリスが技術者を派遣してくれたり、イギリスの銀行が鉄道事業に資金を貸し出してくれたのだと思います。この後の話になりますが、この時の日本とイギリスの信頼関係が日英同盟に繋がっていったと私は考えています。
最初の鉄道技師イギリス人技師について
日本の鉄道導入決定は明治2年(1869年)で、日本人には未知の事でしたので外国人技師を招聘することとなり、明治3年にイギリス人技師エドモンド・モレルなどを招聘しました。
これに、伴う日本の鉄道職員は256人だったそうです。文献としては見ていませんが、この人達の大半は元武士の人達ではなかったのかと想像します。
この鉄道事業を創成していった井上勝(写真❶ :日本鉄道の父)も先の長州密留学の5人のうちの一人で、明治元年に帰国し明治三年から鉄道頭として采配を振るいました。
外国人技術者は最盛期には115人にいて多大な給料や無駄な費用も多くかかりました。このため、井上勝は日本人技術者、機関士、坑夫達の養成が急務と考え、明治10年に「工技生養成所」を設立しました。明治7年には115人いたお雇い外国人の数は明治12年には43名、明治15年には22名まで減少して、以降鉄道の建設も運転も日本人主導で行なわれるようになりました。明治11年~13年の3年間で京都から大津間の建設を日本人だけの力で完成させ、自信と技術の進歩を確信する事が出来たそうです。
この急速な進歩は、どうして生まれたのか?それは、イギリス人技術者達が工事の指揮をとっている時や、機関車を運転しているときなどに日本人達(以前は武士?)に非人間的な態度をとっていたからです。何しろ当時のイギリスは大英帝国でインドを支配し、清も支配してイギリス人にとって有色人種は全て下に見て良い人間という時代でしたから、「外国人に暴力を振るわれ2ヶ月で辞めた」「言葉が分からずに戸惑っていたら、耳を引っ張られ手真似で示された」「掃除をしていたら抑えつけられ、チョンマゲを切られた」など相当なパワハラを受けた人が多かったそうです。又、外国人には相当な高給が支払われていて、鉄道建築長のエドモンド・モレルの月給は850円(現在の1700万円)この金額は当時の日本の最高・太政大臣の三条実美の800円より高額でした。
日本の技師達は、イギリス人達に見下されていることをバネにして短期間で技術を覚え、日本人だけの力で鉄道事業を開始したのです。武士の反骨精神でしょうか。この精神が新幹線を始めとする今の鉄道に息づいていると思います。時速300キロで走ってもシートベルトはいらないし、缶ビールも倒れないのですよ。アンビリーバブル!!じゃないですか。
ドイツ人技師二人
東京駅を中心とした鉄道計画を立案した、二人のドイツ人技師がいました。ヘルマン・ルムシュッテルとフランツ・バルツァーの二人です。
ヘルマン・ルムシュッテルを日本に招聘したのは、私鉄九州鉄道の社長でした。この人がユニークな人で、和英の辞書を作るほど英語がうまく、この辞書でもうけてアメリカ留学して、アメリカ領事、農務省の局長を経て九州鉄道会社社長になった人です。なぜかしら早くからドイツの鉄道技術に着目していて、日本で初めてドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルの招聘に成功し九州鉄道会社の指導をして貰いました。明治20年(1887年)です。横柄なイギリス人から温厚なドイツ人に変わりました。
学識深く、温厚な親しみやすいドイツ人でしたので、彼の回りには多士済々優れた若き鉄道人が集まってきました。
ムシュッテルの人柄と技術力を見たのでしょう、九州鉄道の技術指導を行なった後、明治25年日本鉄道会社の招きで、当時の逓信省に属して東京駅を中心として新橋駅と上野駅間を結ぶ高架鉄道の建設計画を具体的に設計指導しました。
そのあとをフランツ・バルツァーが明治31年から36年まで指導し、ルムシュッテルの案を継承・発展させ、高架鉄道と東京駅の具体的な提案を行なったのです。来日時41歳の働き盛りでした。
そして、上野駅と新橋駅の高架鉄道だけではなく山手環状線、中央線の東京乗り入れ、総武線の東京乗り入れ、中央線と総武線を結んで東京を東西に縦断した現在の東京の鉄道網までを指導したのです。東京駅を設計した辰野金伍もバルツアーの基本設計を少しも変えてはいません。今の日本でも考えられないような超ビッグな開発でした。
明治30年の鉄道網
明治30年当時の鉄道網の図を見ると、各線の起点は新橋駅(東海道本線)、飯田橋駅(中央線)、上野駅(東北本線)、錦糸町駅(総武線)であって、これらを互いに結びつける中心部の路線だけが、まだ未完成という状態でありました。しかし、ドイツ人技師のヘルマン・ルムシュッテルはこの真ん中の空間を埋める構想を示していました。(どうして錦糸町にあんなすごい繁華街があるのか疑問でしたが、千葉への始発駅と言う事で、錦糸町の人達が「新宿の歌舞伎町に負けない繁華街を造る」と言う気持ちで繁華街を造ったそうです。)
ロンドン、パリ(モネの描いたサン=ラザール駅)、ニューヨーク等の駅は、そこから郊外に向かって列車が出発していく駅のスタイルですが、ベルリンだけが環状線方式で東から西へ、北から南へも併せて通り抜けていくスタイルでした。これを東京に持ってきたのです。
名古屋、大阪、仙台といった大都市の駅も、欧米のようなスタイルにしなかったことが、どれだけ都市と鉄道の発達をうながしたか。現在のハイウェーがインターチェンジを設けて何処へでも寄り道せずに自動車が走っていますが、鉄道も同様に乗り換えや方向転換の手間をかけずに列車運行が出来るようにしなければならないという思想を持って、今から135年前にヘルマン・ルムシュッテルが計画したのです。この様な人が日本に来てくれたことは本当に神様の贈りものです。この人でなければ東京の姿が変わっていたのです。
上野駅から東京駅の開通
大正3年に東京駅が開業し東海道本線の起点となり新橋駅とつながりましたが、上野駅とは繋がっていませんでした。これは用地の買収に手間取ったためです。ところが、関東大震災が大正12年に発生し、その復興工事で東京駅から上野駅間の敷地を区画整理で確保する事ができたのです。それで、やっと大正14年に東京駅から上野駅間の開通が出来たのです。東京駅開業11年後のことでした。
これにより、東北本線と東海道本線が東京駅で握手することが出き、本州を縦貫する鉄道幹線が出来たのです。また、山手線の環状運転という東京における画期的な路線網の形成もできました。そして山手線の駅を始発に郊外に延びる私鉄が開設されていったのです。
東京駅の赤レンガ
上野から新橋の間は昔海だったところで、土砂の堆積により陸地化したところや徳川家康が埋め立てたところです。その為地盤が軟弱なためにレンガによる高架鉄道は耐震性で問題があると考えられていました。ところが、明治26年に起った濃尾大震災(岐阜県美濃地方と愛知県尾張地方での地震でマグニチュード8・0、関東大地震が7・9、阪神・淡路大震災が7・2、ですから相当な大地震)のときレンガ造りがたいした損傷を受けず、また、甲武鉄道(現在の中央線)の四ッ谷駅近辺の三カ所のレンガ造りトンネル(現在は一カ所のみ)も少しも損傷を受けなかった為、レンガ造りアーチ橋もかなり激震に耐えられると判断して、地盤は松の杭で強化し、その上に鉄筋レンガ造による建設が決まりました。当初はレンガより軽い鉄骨で考えられたていましたが、鉄材は全て輸入に頼るしかなく(レールの国産1号は明治34年に北九州市の八幡製鉄所で作られた物です)、高価で時間もかかるので、レンガであれば国産で品質も良く十分対応できると言うことで、相対的に見て工費、工期のうえでレンガ造りに決まったのです。大正解でした。何年か前に耐震補強はされましたが、現在でも使用されています。有楽町駅でたたいてきました。頑丈です。
このレンガを、職人が一個一個ブラシで磨いて積み上げたそうです。このレンガ会社も渋沢栄一が経営していました。余談ですが、私は、今は重要文化財となっている、江田島の赤レンガ(明治26年建設の海軍兵学校)で1年間生活・訓練をしました。その赤レンガはイギリスからの輸入品で、一個ずつ油紙で包んで船で運んできたそうです。値段はレンガ一個が米俵一俵(60キロ:約24,000円)の値段だったそうです。
おわりに
社殿にあります太鼓に「寶光坊中」「寶永三年九月吉日」と書かれていまして、この文字の解明から天沼今昔物語は始まったのですが、今回の天沼今昔物語を私の最終稿といたします。次回からは禰宜の渡辺健介が担当いたします。長い間ご愛読を有難うございました。皆様の「楽しみにしています」のお言葉に支えられて頑張ることができました。引き続き息子にも励ましのお言葉をお願いできれば幸いです。
令和4年5月1日