古道散策

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祈りのこころ

祈りのこころ

祈りの心-1

日本人はよく祈る民族だと思います。神社で、お寺で、教会で、クリスマスに、正月に、道路の片隅にあるお地蔵さんにも、これはすばらしいことだと思います。祈りは感謝の気持ちを育みます。感謝は謙虚さを導きます。謙虚さは誠実な姿を生み出します。

誠実な姿とは、気持ちと動きが伴ったものです。気持ちだけでは駄目です。動きだけでも駄目です。気持ちと動きが伴って始めて誠実な姿を見ることができます。我々が求めるところは、誠実に尽きると思います。祈ることにより誠実な姿に導いてくれます。

西行法師が伊勢の神宮で手を合わせ祈ったときに、「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と歌われました。お坊さんも神様の前で祈る。これが日本人の宗教観ではないでしょうか。

日本人の祈りは、祖先を尊崇する祈り、自然を畏怖して祈ることから自然に身に付けた心です。

農耕を営む中で、生きていく中で、祈る。祈る。常に祈りながら生活してきた民族であろうと思います。全てのことに祈ってきた。これが、日本を物造り大国に導いたのです。一つ一つを、丁寧に祈りを込めることで職人技になるのです。それで世界一精巧なものが造られるわけです。ワールドカップで使われたホイッスル、オリンピツクで使われた砲丸投げの砲丸、いずれも日本人が造ったものです。

宗教を聞かれてもこたえられないと最近の日本人は言いますけれど、それが日本人の宗教です。一神教の西洋とは異なるだけです。どちらが良い、悪いということではありません。私たちの宗教なのです。

曽我ひとみさんが帰国されたとき、「皆さんに、こんにちは。二十四年ぶりに故郷へ帰ってきました。とってもうれしいです。心配をたくさんかけて本当にすいません。今、私は夢を見ているようです。人々のこころ、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます。空も土地も木も私にささやく。『お帰りなさい。がんばってきたね。』だから私も嬉しそうに『帰ってきました。ありがとう』と元気に話します。皆さん、本当にありがとうございました。」と話されました。二十四年もの間、日本に居なかったのに、日本人のこころを失っていなかった。驚愕にあたいすることだと思います。きっと、拉致された北朝鮮でも祈りつづけていたのでしょう。祈りとふるさとが日本人のこころを呼び戻したのでしよう。

私たちも、祈りと、ふるさと、そして、今、お住まいの新しいふるさとを大切にしましょう。それが日本人のこころを育む第一歩となります。

平成18年12月

祈りの心-2

皆様に良く聞かれる事があります。「毎日のお勤め大変でしょ。」と、実は困ってしまうのです。「一日と十五日を除いては、たいした事はしていないのですから。」と何年も心の中で思っていたのですが、最近は「境内の清掃がお勤めかな」と思えるようになって来ました

常緑樹は葉っぱが落ちてこないと思っている人がいらつしゃいますが、ところがどっこい、春と秋の年二回も、しっかりと落ちて来ます。”椎”や”樫”の木の新しい葉は、古い葉っぱを押し出すように落として出てきます。そして、緑輝く若々しい葉っぱを見せてくれます。

また、今年のどんぐりは、落ち始めが早く、小粒でした。地球の温暖化を教えてくれているのか、たんに、夏が暑かったからでしょうか。ソロの木は、毛虫のような花(?)を落とし始めて、春の到来を教えてくれます。

桜の花はとっても綺麗で、皆さん大好きでしょうが、花びらと同じぐらいにたくさんの葉が落ちるので困っている人もいらっしゃいます。でも、落ち葉が落ちて、一、二ヶ月もすると小さなつぼみが出てくるのです。寒い冬にじっと耐えて、春の花咲く準備を始めているのです。愛おしくなって来ます。

一年を通じて十年、二十年と、木々と一緒に呼吸をしながら、庭掃除をさせていただくことで、四季のめぐりを感じるようになりました。その頃から、「人は自然の一部で、自然の中で生かされている。」という事を実感し始めました。感謝、感謝、生かされていることに感謝です。

これは、今をありのままに受け入れ、一生懸命生きていく事が大事だと教えてくれているのだと思います、今しかないと感謝して、精一杯生きて行く事が大事なことだと思います。

これを感じさせてくれた庭掃きが、お勤めではないでしょうか、この気持ちを、あなたさまに少しでもお伝えすることができればと思う今日この頃です。

新年に花もない、葉っぱもない桜の木を見てください。小さなつぼみの赤ちゃんが見つかるかも知れません。そして、自然の息吹を感じてください。清清しいお正月を迎えることができますよ。

(ありがたいと思う気持ちが、感謝の気持ちを育みます、感謝する気持ちが、謙虚さを導きます、謙虚さが、人にとって一番大事な、誠実な姿を生みだしてくれます。)

平成19年12月

祈りの心-3

感ずる落ち葉そうじ

神社の朝一番の仕事は、ご社殿の扉を開ける事です。次に、神様にご挨拶をして、お参りの方が気持ち良くお参りいただけるように、境内の掃除を行うことです。これが嫌いだったんです。毎日、毎日、一年中、休み無しなんですから。

落ち葉は秋だけだと思っている方もいると思いますが、落ち葉掃除は一年中なんですね。春でも、冬でも、だから嫌いなんですね。休みがないんですから。「常緑樹も葉っぱが落ちるんですね〜。」と言う方がいましたが、常緑樹は一年中落ちています。

ですから、雨が降れば喜んで朝寝をしていました。雨が上がっても「葉っぱが濡れてまだ掃けない。」、小雨が降ってきたら、「ア!雨だ。」と掃除をやめて家の中に戻っていました。しかし、朝方雨が降っていたある午後、道路を掃いている時に、下校中の一年生から「あ、寝坊したんだ。」と、言われました。「ドキッとしました。こんな幼い子でもしっかり見ているんだ。」と、驚いてしまいました。

それからは、掃き掃除をしっかりと意識して始めました。10年ほど過ぎてから、季節が巡っているのが判るようになりました。

常緑樹の"しい"や"かし"の新緑が輝く4月。ケヤキの葉が出てくる5月。秋になると"いちょう"の葉っぱが黄色くなって、素晴らしい景色を見せてくれます。そして、もっとすごいのは、黄葉に朝日が当たる時です。金色に輝くんです。これは、朝早く起きている人しか見ることが出来ません。真っ暗な中、外灯で照らされた黄色い葉っぱを掃き始めて、東の空が黒から紺、紺から青く、青から水色に、そして、雲がオレンジに輝いてきます。冷気の中、そのオレンジの光が、"いちょう"の木の先端に当り、黄葉が金色に輝いてきます。感激です。是非早起きして見てください。

また、春には、ソロの木から毛虫みたいな姿の、花なんでしょうか、何なんでしょうか、沢山ドサッと落ちてきます。「あ〜また今年も毛虫が落ちてきた。春も近づいたな。」と、思ったりもするのです。

一年、二年の庭掃除では、この"季節のめぐり"はなかなか分からりませんでした。落ち葉を掃除しているという意識だけでは。10年すぎて、やっと「この木の次はこの木かな、そろそろどんぐりが落ちてくる頃かな。」と分かってきました。そんな時に「自分もこの自然の中に包まれているのかな?自分も自然の中の一部分なんだな。生かされているんだな〜!!!」と感ずるんですね。そこに神の力を感ずるんです。「神がこのすばらしき自然を造り、人をもまた造り給ふ。」と感ずるんです。 コンクリートジャングルの中で仕事をしている人々には分からない事だと思います。そして、この素晴らしき四季があるのは日本だけなんです。ありがたいことです。お忙しいとは思いますが、春は桜、秋は紅葉と四季の巡りを感じられてください。心が豊になっていくと思います。

天皇陛下 御即位二十年

御即位十年のお祝いの時には、私をはじめ7人の方々が、熊野神社の代表として、皇居前での式典に参加してまいりました。寒くて雨が降る中8万人の方々が不平不満も言わずに両陛下がお出ましになるまで3時間以上も立ってお待ちしていました。式典に感激し、参加の皆様の態度にも感動して帰って来たことを今でも忘れません。

来年11月12日に御即位二十年の式典が計画されています。ご一緒しませんか。感動、感激を皆様と共に感ずることができればありがたいと思っています。

言霊について

神道において、と言うよりも、日本人として言霊思想について少しお話させて頂ければと思います。色々な会合などで、使わないほうが良いという言葉があります。忌み言葉というものです。「割る」や「終わる」をさけて、「鏡開き」や「お開き」と言ったり、「すり鉢」を「当り鉢」、「するめ」を「あたりめ」、「切る」を「入刀」などなど。知らず知らずのうちに、私たち日本人は、昔から、言葉の使い方を大切にしてきました。それは、言葉に命が宿ると考えてきたからです。神道では、祝詞がまさにそれにあたると思います。

嫌なことを聞けば、嫌な気分が生まれるので、嫌な気分になる。つまり、言葉が事柄(ことがら)を生んでいるのです。言葉が、聞いた人の心の中に住み着くということになる。うれしい事を聞けば、うれしい気分が生まれ、うれしくなる。これも事柄です。何も言わなければ、何も起こらないので「口は災いの元」という格言もあります。

言葉によって、喜怒哀楽が起こってしまう事を私たちは体験していると思います。言ったことがそのまま形となって現れるという信仰が、言霊信仰です。つまり、言うことが事柄(ことがら)になる、ということです。

万葉の時代には、「言(こと)」と「事(こと)」とは混じりあっていて、同じ意味に用いられていました。「言と事と心が一体だから、言葉が事柄を生む。」という考えは、言葉の中に霊が生きているからで、それを言霊と言うのです。

そこで言葉が人に与える影響が問題になってくるのです。テレビやラジオなどで釈明の発言などを聞いていますと、単に説明文を読み上げている発言と、本当に申し訳なかったという気持ちが伝わる発言があります。発言の内容ではなく、発言の言葉に気持ちが入っているかどうかを私たちが分かるからです。言霊を感じる力を私たちが持っているのでその違いが分かるのです。ですから、私たちは言葉の大切さに思いをめぐらさなければならないと思います。

常日頃私も、言葉遣いには気をつけていますが、「しまった。なんであんな言葉を使ったのか。」と思うことがたびたびあります。そのときには、やさしくご指導いただければ幸いです。よろしくお願いします。

この「言霊について」は、神社新報に掲載された、皇學館大學教授の松田典祀先生の「国語の特質としての言霊思想」を参考にさせて頂きました。