古道散策

「古道」は、古来の道義、学問、文化を意味しますが、ここではこれまでの学習と先人の教えを踏まえ、日々思うところを書かせていただきました。
ご指摘、ご指導等ございましたら、天沼熊野神杜までご連絡いただければ幸いです。

天沼熊野神社 宮司 渡辺 寛

1.天沼今昔物語

2.祈りのこころ

天沼今昔物語(抜粋) 第一話

ここ天沼村は、江戸時代には73戸、明治の初めは77戸の戸数で、今とは大違いの、棒や、杉が生い茂り、狐、狸が走り回っている武蔵野の原野でした。明治24年に荻窪駅ができ、それから、少しずつ人が増えてきたのです。

大正11年に、高円寺、阿佐谷、西荻窪と駅が出来、その一年後に関東大震災が起きました。そのときの被害は、杉並町1800戸で、全壊が10戸、死者、行方不明者0、火災なしで下町と比べて被害が無い、微小の状況で、駅の新設、そして、地震に強いということで、この頃から人の移入が進みました。それまでは、近郊農業(野菜などの栽培)でしたが、耕地を宅地化して行きました。その推進役を担ったのは、行政ではなく、土地の人々でした。その中心は、この天沼では浅倉さんでした。其の訳は、浅倉さんの御先祖は今から610年前に、紀伊半島の熊野三山から、熊野様の御札を持って、舟に乗り、ここ天沼に帰農した人々なのです。そのとき、まげを切り落として僧となって寶(宝)光院(寶光院→十二杜権現→熊野神社)を建てたそうです。宝が光り輝いている様なすぱらしい力をお持ちの神様(神仏習合の時代)と.して奉斎を始めたのです。それで、お坊さんが住んでいる所と言うことで宝光坊という地名になりました。このときが、南北朝時代の後の応永二年(1395年)です。以後天沼の中心は、この宝光院となり、何か相談事があると此処に集まり、相談をしたのです。

天沼の地名を調べられた学者さんがいらっしゃいまして、天沼の地名は、東京都の杉並に一ヶ所、神奈川県に一ヶ所、埼玉県に十一ヶ所あり、東京近隣に合計十三ヶ所あるそうです。そして、これら天沼の地名に共通した立地条件としては、高低の差はあるものの、そのすべてが、池、沼あるいは流水の傍らにある高地であるとの事だそうです。これから考えられることは、天沼とは池、沼に近接する高所で「沼の上(天)」を意味する地名と考えることができます。

この話を裏付ける事として、天沼の地形が変わったのは昭和六年から始まった区画整理からでして、これ以前の地形を示す大正七年頃作成の絵地図が当社にあり、この絵地図が天沼の地名が付けられた昔、むかしの地形を示していると考えられます。これをよく見ると沼は一つもありません。妙正寺川や桃園川沿いに水田があり、雑木林や畑があるだけなのです。天沼といってもやはり沼は無かったはずです。天沼とは沼がたくさんあるという意味ではなく、沼地、湿地帯の上(天)という意味で間違いないでしょう。ここ杉並の天沼でいうと、妙正寺川の上の高いところの場所を天沼と言ったのでしょう。沼という地名が付くので地盤が弱いわけではなく、地盤はしっかりしています。

江戸時代の初期には、天沼村には三杜の氏神様が鎮守されていて、その氏神様を中心に地域が区分されていましたが、昭和40年に誰もが町の境が分かるように(警察、消防、郵便配達等の人々)、道路区分された町へと変遷させられました。地域の繋がりが行政の境でしたが、行政による行政の為の町区分変更が行なわれました。しかし、土地の人々にとって地域の中心である氏神様は変わりませんでした。道路を境とする新住居表示の施行によって天沼村は再区分されましたが、その繋がりは切れずに、一つの町名に、二つ、三つの町会が存在する現状を作りました。

次の『地名、町名の変遷と氏神様』の表を参照してください。

地名、町名の変遷と氏神様』

江戸時代の小名 明治22年
改定
昭和7年
改定
現在の町名(町会等)昭和40年改定 :
道路で区分け
氏神様
中谷戸 中谷戸
小谷戸
四面道
天沼1丁目 天沼1丁目の南部の一部
天沼2丁目の一部(二丁目町会)
天沼3丁目
八幡神杜
1573年創建
宝光坊 宝光坊
山下
天沼2丁目 天沼1丁目の大部分
天沼2丁目の一部(二丁目みよし会 )
阿佐谷北三丁目の西側
(阿佐三会、東側は阿佐谷村)
熊野神杜
1395年創建
本村 本村
東原
割間
天沼3丁目 本天沼一丁目、二丁目、三丁目の
各大部分
下井草一丁目の中央大部分
(東側は阿佐谷、西側は下井草村)
(本天沼東町会と本天沼西町会)
稲荷神杜
1635年創建

江戸時代は畑作だったのが、明治は、畑作、林業、養蚕業、その後、野菜栽培、昭和は宅地の造成という形で原野は耕地に、耕地は宅地に替わつて行きました。これにより、現在の杉並が活性化した地域となっていったのです。電気もガスも水道も駅も、自分達でお金を出し合って、お願いに行って作ってきたのです。杉並区では代々住んでらっしゃる人々が10%前後になって来ましたが、この人々の御先祖達と新住民の人々が氏神様を中心としてまとまり、地域を良くしよう、より良い方向に進めようという強い気持ちを持ち続けてきたからこそ今の杉並があるのです。

杉並は、工業地区ではなく、商業地区でもなく、住宅地区です。ですから、土地の人々より、この町に10年、20年住んでいるという人々の方が多い町です。そして、次また何処かに移って行く人々の方が多い町です。この新しい人々、新住民の人々は、氏神様を中心にして早く町になじんでいただければと思います。氏神様のお祭りやお正月に積極的に参加して欲しいと思います。一時とはいえ、この杉並にお住まいの人々には、地域の、町の為にカを出してください、皆さんのカで今の天沼、本天沼、荻窪、阿佐谷を作る事が未来に繋がる事であります。来年は此処に住んでいるかどうか分からない人々でも、是の土地に愛着を持つて歩いて頂きたい。その道も、私達の先人が作ってくれた道なのです。

平成16年6月

天沼今昔物語 第二話

天沼の文字が始めて歴史に出てくるのは、寛永十二年(1635年)でおよそ400年前の事です。将車徳川家光が、赤坂の日枝神社にお参りした時、「ご奉納として、阿佐谷村、天沼村、堀の内村、下荻窪村の四村をさしあげた。」とあり、これが初見だと思います。それ以前の記録では、応永二十七年(1420年)の「武蔵国江戸の惣領之流」の中に「あさかやとの」(武士の江戸一族の中に阿佐谷に住んで居る一族が居る。との意味)とあり、これが近隣地名の初見と思 われます。このときには、朝倉(浅倉)氏が帰農(1395年)していますが、天沼の記述はなく、この事から推測すると、天沼の地名などを意識する必要がない状況ではなかったと考えます。その後、「堀の内、下荻窪、泉村が鎌倉円覚寺の荘園」「阿佐谷、泉村、永福寺、成宗、高井堂は小田原北条家臣の領地」等の記録がありますが、天沼は出てきません。この後、天正19年(1591年)に杉並地方で太閤検地が行われています。この頃から、「此処までは俺の畑だ。」「ウチの田だ。」という意識が出てきたのではないかと思います。それで、土地に対する意識の強まりが、地名の自覚を進め、家光公のご奉納の時(1635年)に天沼という文字が出てきたのではないでしょうか。これは私見であります。

また、天沼には、暗渠になっていますが、桃園川という川が在ります。しかし、これは、自然の川ではなく用水路として、天保年間(1830年代)に阿佐谷村名主相沢喜兵衡が造った物です。青梅街道の関町一丁目信号の交差点を南に入った所に、千川上水から取水している桃園川の始まりがあります。青梅街道に沿って四面道を過ぎ、りそな銀行とJTBの間のカラー舗装している脇道に入り、その道に沿って、日大幼稚園の脇、慈恩寺の脇、中杉通を越え、河北病院の東側を通り、欅プールで中央線を越え桃園川緑道に繋がり、馬橋、高円寺、大久保通りに沿って山手通を越え、末広橋で神田川に合流します。

この用水を、灌概に利用したり、米を搗く為の杵を動かす水車の動力源として使っていました。天明八年(1838年)の調べで近隣の水田、面積は、上井草村十町歩、下井草村二十八町歩、天沼村三町歩、阿佐谷十二町歩、下荻窪村二町歩とあり、やはり天沼村は裕福ではなかったようです。

以上、新修杉並区史を参考にさせていただきました。ご指摘、ご指導 ございましたら、天沼熊野神杜まで ご連絡いただければ幸いです。

平成17年6月

天沼今昔物語 第三話

天沼が開けたのは、やはり、甲武鉄道(現在の中央線)に荻窪駅が創られたからだと思います。ではなぜ荻窪駅が創られたのかと言うと、当初は荻窪を通らずに、江戸時代の宿場町であった、高井戸、田無を通る計画でした。しかし、当時の汽車が出す火花がワラの屋根に飛び火事になる、汽車の振動で鶏が卵を産まなくなる。と反対運動が起こり、中野から立川まで真直ぐに鉄道を引いたのです。それで、青梅街道と鉄道が交わる荻窪に駅ができたのです。多摩、田無、高井戸又近隣の村で生産される物を東京に輸送する貸物の駅として開業したのです。それで、貸車の為の引き込み線があったり、日本通運や豊多摩通運ができたのです。それでは青梅街道がなぜにできたのかというと、徳川家康が大阪城を攻め落とし、江戸に幕府を開き、大阪城を凌駕する城を作る為、漆喰の主要材料である大量の白土(焼き石灰)を成木村(現在の青梅市)の石灰でまかなう為に青梅街道を作ったのです。歴史には必然もあれば、偶然もあるかもしれませんが、やはり何か理由があるのだと思います。

また現在の、日大ニ高のテニスコートの東にある都営アパートの所は、戦前は野方警察署付近から繋がる陸軍通信隊のハラッパでした。有線通信の為の電線を引っ張る訓練をしていたようです。なぜに、そんなに広いハラッパがあったかというと、野犬を放しておく場所だったからです。江戸時代、五代将軍綱吉のときに生類哀れみの令が出され、犬などを殺すことができなかった為、野犬が増え危ないので、其の野犬を囲って置く為の場所だったのです。当初は高円寺までだったのが次第に拡張されて天沼まで拡がって来ました。

犬を放していても問題が無い原野だったのかもしれませんね。野方警察署の町名は、今は中野四丁目ですが、以前は囲町という町名でした。それは、犬を放し飼いにする、犬を囲っている場所の入口だったからです。今では中野体育館横にある囲町公園にしか名前は残っていません。また、中野区役所の脇に鎮魂の為の犬の像があります。

それ以後は、鷹狩りの場所になり、徳川将軍がよく来れたようです。それで、アメリカンエクスプレスの南にある旧中田村右衛門の屋敷跡があるのです。明治天皇荻窪御小休所とありますが、将軍が来ていたので、明治天皇も休憩に使われたのです。立派な門が残っていますが、将軍が、百姓の納屋で休む事はできないということで、特別に百姓であるが将軍の為に、本来は許されない門を作らせ、門構えの家を許したのです。鷹場に将軍が来るときには、道路、橋等の修復も行わされました。また、鷹の獲物であるウサギや狸などの動物も捕ってはいけないし、林を無くして畠を作ったり、家屋敷の新築なども制限されていました。この様な為に天沼村の人々も裕幅な生活はできませんでした。

以上、新修杉並区史を参考にさせていただきました。ご指摘、ご指導ございましたら、天沼熊野神社までご連絡頂ければ幸いです。

平成18年6月

天沼今昔物語 第四話

天沼周辺にお住まいであった著名人の人々を今回は紹介いたします。

まずは、皇居宮殿の壁画「朝陽」、法隆寺の壁画の二度に亘る復元模写、舞妓さん達などを描かれた橋本明治画伯。当社のすぐ西にお住まいでありました。現在でも自宅兼アトリエが残っています。私が研修で出雲大社に出かけたとき、待合所にて大きな龍の絵を見つけました。はてと思い、お聞きしましたところ、やはり画伯の絵でした。出雲神話のヤマタノオロチからヒントを得た「龍」だそうです。落ちないように、しっかりと付けられている為、取りはずす事ができません。その為、ここでしか見ることができません。出雲大社にお参りに行かれたら、是非この絵もごらん下さい。また、熊野神社には小出あき子さんが描かれた、「秋の光」(境内の紅葉の景色)がありますが、小出さんが境内で描いているとき、後ろに来たおじさんが「そこの色はおかしいな」と注文を付けたそうです。「うるさいわね」と思ったら「橋本明治さんだった」という逸話の絵であります。

つぎに、独自の私小説の道を切り開いた、上林暁文士の住居は、神社の前の道を100mほど東に進んだ所で、昭和の雰囲気を残した板塀で囲まれています。二度も脳出血で倒れましたが、創作意欲は衰えず、倒れた後に、読売文学賞を受けたり、第一回川端康成賞も受けられています。左手でのミミズがはったような文字で書いたり、妹さんに口述筆記してもらったり、亡くなるまで創作活動を続けました。妹さんは健在で、玄関をくぐると沢山の蔵書が垣間見えます。私は「本が沢山あるな」と思っていましたが、最近その理由が判りました。この妹さんが『兄の左手』という壮絶な文筆活動の記録を出版されています。

フランス文学者の河盛好蔵さんも神社の南150mほどの所にお住まいでした。87歳のときに脳梗塞で倒れた後、89歳で『私の随想集』全五巻を刊行され、97歳で亡くなられました。阿佐ヶ谷会の最後のお一人でした。私の随想集は、パリのうきうきするような華やぎや、日常のことを判り易い文章で書かれています。

全国的に一番有名な人、太宰治。日大二高通りを四面道に向かいまして、右手にセブンイレブン、左手にガソリンスタンドがある細い交差点を左に曲がり、床屋さんの斜め前のお宅がお住いでした。古い家ですが、今でも洒落た家だなと忠います。

阿佐谷文土会の中心人物でした、井伏鱒二さん。清水にお住いでした。杉並区立郷土博物館に、荻窪の昔の姿を留めた、住居の模型が展示されています。「荻窪風土記」で、荻窪を全国的に知らしめて頂きました。

最後に、版画界のゴッホこと神方志功さんについて、上荻にお住いだったそうです。青森に研修に行ったときに、棟方志功記念館があり見学しました。すごい人だなと感心していましたら、荻窪白山神社の今の宮司さんが、「家の近くに住んでいて、木切れをいっぱい持ってきたんだ。全部燃しちやった。今思えば勿体無かったな。」と聞きました。

以上の人々とは私はお会いした事がなく、残ったお住いを見るだけですが、そこで、苦悩しながら必死に絵を描いたり、文章を練っていたかと思うと、感慨深いものがあります。しかし、人の命には限りがあることをつくづく思う次第でもあります。生かされていることに感謝して、日々明るく、前向きに生きていくとが太切であることを感じる次第であり、此れが神道の心ではと考えます。他にもすばらしい人々がいらっしゃると思いますが、お教え頂ければ幸いです。

平成19年7月

天沼今昔物語 第五話

杉並区の杉並の由来について

杉並の名称の起源は、古いものではなくわりと新しいものです。徳川時代初期に、旗本の岡部氏(千五百石)が、成宗村、田端村の領主になったとき、阿佐谷村(赤坂日枝神社の社領地、天沼村も同様です。)との領地境の目印として、青梅街道ぞいに植えた杉の並木からきています。阿佐ヶ谷の地名の方が古いのですが、青梅街道を通る人が増えるにつれ、また、暑い夏の日には涼んで休憩したり、雨宿りしたりして「青梅街道の杉並木」の名称から杉並の地名(字名)が生れたのではないでしょうか.今の区役所のあたりです。

江戸時代初めの阿佐谷村の字名を見ると、向、小山、原、本村しかなく杉並はありません。又、近隣にもありません。ですから、間違いなく、江戸時代の初期に岡部氏が植えた杉の並木が杉並の縁起と考えます.ですが、この近隣では一番古い地名の阿佐谷ではなく、どうしてこの新しい地名が、今、この近隣を代表する名称に格上げされたかと言うと、明治二十二年の町村制施行で近隣の村々が合併されることとなり、天沼村、高円寺村、馬橋村、阿佐谷村、田端村、成宗村、下荻窪村の7村が合併し、その村名は阿佐谷村と提案されたのですが、下荻窪村は上荻窪村の方に合併したほうがよいとされ、次に村名は、字杉並の地名が今は著名なので名称を杉並村としたいと再提案され了承されたのです。初代の村長は玉野惣七さんで、村役場は世尊院に設置されました。

大日本帝国憲法の発布(明治22年)に合わせて、地方制度の再編も実施され、翌年には、第一回衆議院総選挙も行われています。藩閥政治から立憲体制へ転換する最中、明治22年(1889年)杉並村は誕生しました。これにより、現在、杉並木はありませんが、杉並の名前が継承され今の杉並区の名称に至っています。

参考・・杉並区で一番古い地名は、阿佐谷なのです。応永二十七年(1420年)の記録に残っています。紀伊半島の熊野那智大社がお札を配っていた記録に「米良文書」というのがあります。そこに「江戸氏の十八流」として、お札を配る為に家の名が記載されていて、阿佐谷殿(杉並区阿佐谷)、丸子殿(大田区、川崎市)、中野殿(中野区)、飯倉殿(港区麻布)、牛島殿(墨田区向島等)等々十八軒の記録か残っています。これ等の地名は600年前からある地名で関東では古いものとなります。ちなみに、紀伊半島の那智熊野の熊野様のお札を全国に配って周っていた人たちのことを、御師(おし:御祈師の略)といい、伊勢の神宮の天照大御神様のお札を配って周っていた人たちのことを、御師(おんし:御祈祷師の略)といいます。

私見の部分も多々ありますので、ご指導、ご指摘頂ければ幸いです。

平成20年7月

天沼今昔物語 第六話

天沼の教育施設

江戸時代の庶民の教育といえば寺小屋ですが、残念ながら天沼村にはなかったそうです(荻窪駅の南口付近には稲葉堂という寺小屋がありました)。ですから、天沼での学校教育の始まりは、日大二高通りの交番を北に進んだところにある蓮華寺になります。大正6年6月1日のことであります。20畳程の一部屋をお借りして桃野尋常高等小学校(現在の杉一小)の分教場として始まりました。現在八町会の会長で、天沼陸橋の近くにお住まいの藤原嘉民さんのお父さん、藤原一嘉さんが初の先生で、1年生、2年生の児童18の教育にあたりました。学科は修身、読書、習字、算術の四科目で、黒板を半分ずつ使い、半時間ずつ教えていたそうです。司馬遼太郎著の『坂の上の雲』にも、教育は「読み、書き、そろばん、人の道」とあります。やはり、この四つが教育の基本ですね。また、明治の実業家、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一も、「右手に論語、左手にそろばん」と言っています。 やはり「人の道」が大事ですね。

次に、杉並第五小学校が大正15年4月1日に開校し、教員8名児童311名で始まりました。このため、分教場はなくなりました。しかし、杉五小の開校記念日は、分教場の始まりを尊び6月1日としました。詳しくは、「新 天沼杉五物がたり」をお読み下さい。

杉五小は、平成20年3月に閉校して若杉小と統合し天沼小学校になり、82年の歴史を閉じてしまいました。

天沼小学校は、平成20年4月に開校し、初めての一年生74人が入学、21年3月には天小一期生58人が巣立っていきました。歴史はこれから作られます。

昭和2年4月に、天沼でもう一つの大きな存在である、通称、現在の日大二高(正式には日本大学第二学園)が創立しました。木造二階建てで9学級、540名の始まりだったそうです。本年で83年になります。

当時の日本大学学長 山岡萬之助法学博士がドイツ留学中に得た「中等教育が人格陶冶(トウヤ:才能や性格などを練り鍛えて養成すること。)に重大なる関わりを持っている」ということで、中学校(現在の一高、一中)を大正2年に本所(現在の墨田区両国)に作り、次に、第二中学校(現在の二高、二中)の創設を山野井亀五郎氏に託されました。山野井亀五郎氏は、各地を探されたそうですが、最終的に「西に毅然たる富士を仰ぎ、南に杉並の森を眺めるこの天沼を理想的教育地」と定めたそうです。(余談ですが、日本大学の建学(明治22年)の精神は、「欧米心酔の時代、日本の姿を忘却せず、日本文化に裨益(ヒエキ:おぎない役立つこと)し、教導する。をもって建学の本旨とする。」と、あります。すばらしいですね。今もって同じ精神は必要と感じますし、日本と欧米両方を学ぶともっと良いと思います。)

しかし、理想的教育地といっても、今とは大きく違って、学校の回りは畑や雑木林や竹やぶに囲まれ、東は中野のほうまで、頭も隠れてしまうようなカヤや雑草のハラッパが続いていて、今はバス通りになっている日大二高通りも狭い道で、狐や狸はいても、人はろくに通らないところだったそうです。このため、学校を創っても学校を知っている人がいない、それで、山野井先生自身がトラックに乗って、四谷、牛込、小石川、渋谷から吉祥寺、国分寺、立川、八王子、三多摩等の各地にビラ貼りや、看板を立てに出かけ、宣伝して回ったそうです。今とは大違いですね。現在の鉄筋4階建てエアコン完備で在校生約2000人の姿は、すばらしい先生達の積み重ねです。

開校前の二高の敷地についてですが、西側は畑や雑木林で、東側は、陸軍中野電信隊の演習地で、その南側は乃木将軍ゆかりの物などを集めて顕彰公園の計画があった草むらだったそうですが、その計画が中止されたあと、当時の杉並町長陸軍少将岩崎初太郎氏や地域の方々の理解、協力を得て、校舎と運動場敷地を獲得し開校の運びとなったそうです。やはり、人と人の?がりが大事なんですね。

中学校の校舎と校庭のほかに大学のための本格的な陸上競技場と野球場が整備され、日本大学陸上部の合宿所もありました。開校した当時には、土曜、日曜になると東鉄(東京鉄道管理局)などのノンプロチームがこの球場を使ったりしていました。このため、天沼では野球熱が高まり、昭和2年、開校早々に杉五小が全国大会で優勝するきっかけを作ることにもなったようです。戦後も熊谷組が練習に来ていまして、娯楽がない、物がない時代でしたので、近隣の子供たちはその練習を一生懸命見るのと併せて、折れたバットを探しては釘でつないで遊んだりもしでいました。

第二学園の80余年の歴史の間には色々な出来事がありましたが、その中でも、太平洋戦争勃発直後に、中島飛行機製作所をはじめ多摩地区の軍需工場への輸送動脈として天沼陸橋の建設が始まりました。この時に日大二中の生徒らも動員学徒と一緒にモッコ担ぎをしたことがあります。また、残念なことですが、戦後まもない昭和23年〜昭和24年に三度の火災にあったりもしています。平々凡々な80余年ではなく、幾多の困難を乗り越えて学園発展の道を歩んできたのです。また、地域との協調、融和にも連綿として努めています。例えば、昭和2年に鶴見小が杉五小との野球の試合を行うためにはるばる遠征してきましたが、その会場としてグランドを提供したり、昭和25年頃には、杉五小の学芸会に講堂を提供したり、今でも、地域の消防団にポンプ操法訓練の場を提供したりもしています。

そして、平成の御世になり、21世紀に向け新たな時代に対応するため、昭和26年から二代目理事長の職を担っていた山野井和雄氏は、とりわけ少子化の問題を大きな課題と捉え、中学・高校一貫教育は保ちつつ、新たに男女別学から男女共学への移行(杉五小でも昭和22年までは、制度的には男女別学でした)とそのための諸施設、組織の再構築を掲げ、平成10年に正門、本館、校舎、外回り等を整備し、信頼敬愛、自主協同、熟誠努力の校訓を基に、幾多の災いあろうともそれらを乗り越え、更なる飛躍を求め学園関係者一同が一丸となって日々努力を重ね今日に至っています。

さて、杉五小、日大二高と同じ時期、昭和2年12月22日に日大幼稚園も日本大学唯一の付属幼稚園として開園しています。当初は1学級19名で始まりましたが、現在は3年保育で各3クラス190人、7000余名の卒園生を社会に送り出しています。またまた余談ですが、私は杉九サッカークラブでもコーチをしていますが、このコーチ陣の中で、日大幼稚園から始まった先輩後輩の関係を、杉五小、天中と続け、杉九サッカークラブで再度その関係が復活した人達がいます。始まりは日大幼稚園だったのです。地域の繋がりとは面白いものですね。

また、戦後、お母さんたちの発案でお母さんたちが幼稚園児たちに給食を作り始めました。現在では、専任の栄養士と調理スタッフにより幼児向けに工夫され、また、近くの、豆腐屋さん、魚屋さんからも食材を仕入れたりして、給食が作られています。幼稚園自体で給食を作っていることは杉並区でも珍しいそうです。

そして、秋になりますと、お兄さん、お姉さん園児たちが、弟、妹園児たちの手を引いて、熊野神社にどんぐり拾いにやってきます。どんぐりを捜している喜々とした園児たちの姿にパワーを感じ、また、パワーも貰い、また、幼稚園の教育が充実していることも感じます。まさに地域に根ざした幼稚園ですね。

最後に、今回この三施設の始まりがほぼ同じ時期という事を始めて気づきました。これは偶然ではないと思います。荻窪駅が明治24年にできて37年、東京駅が大正3年にでき、大正8年に中央本線がつながり都心との繋がりが強くなり、荻窪駅が地域の物資の集積、移動のためではなく、人の移動のための駅に変わりつつあった時期、また、大正12年の関東大震災で、当時の杉並町1800戸で、全壊が10戸、死者行方不明者0、火災無しという、安全な地域、また、近隣の方の話で「昭和10年頃で水道と電気があるのは中央沿線では荻窪駅まででしたので、麹町から移ってきました。」とあるように、文化的な生活ができる天沼という場所を選んで、人口が増加して来た時期、そして、東京都市土地区画事業が大正11年から開始されまして、ここ天沼では昭和6年からこの事業が行われました。そのような、東京市郊外が姿を変えていく時期で、当時の荻窪駅周辺の人々、天沼の人々が、「変化に対応していこう」という気持ちを強く持ったからだと思います。更に重ねて考えると、お武家さんの時代には、村の人々の意思では何もできなかったのが、明治、大正と過ぎてきて、昭和になり、「自分たちの町は自分たちで創っていくんだ」と、夢を実現し始めた頃だったとも思います。

以上、天沼の教育施設について述べさせていただきましたが、天沼中学校(昭和22年5月2日開校)については紙面の都合で次回以降をお楽しみにされてください。また、誤りやご指導がありましたら社務所にお電話でも結構ですのでご連絡いただければ幸いです。

平成21年7月

天沼今昔物語 第七話

天沼橋について

前回の社報に誤りがありました。日本大学第二学園の校訓を「信頼敬愛、自主協同、熟誠努力」と紹介致しましたが、「熟誠(じゅくせい:じゅうぶんにできあがること)」ではなく「熱誠(ねっせい:熱情のこもったひたむきな真心)」の誤りでした。お詫びと訂正をさせていただきます。また、グランド横のイチョウ並木は昭和三年に植樹されたと教えていただきました。そして、杉五小が野球の全国大会で優勝したのは、すごいピッチャーがいた事と併せて、日大野球部の親身な指導があったからだそうです。

それでは、今回は「陸橋」、または「天沼陸橋」と言われている「天沼橋」についてお話をさせていただきます。

荻窪駅は明治二十四年に、甲武鉄道の新宿、八王子間と青梅街道が交差する近くに駅が必要ということで、甲武鉄道の八番目の駅として開設されました。駅舎は南口だけで、天沼からの利用者は青梅街道の踏切(現在の駅東側の地下道付近)を渡って乗降していました。当初は、一日五往復、130人程度の乗降客(現在ではJRが9万人、地下鉄が7万人です)でありましたが、次第に電車の量や、青梅街道を往来する車の量が増え、電車が通過するたびに踏切が下がり、青梅街道が長時間ストップされてしまう問題が生じてきました。その対策として青梅街道を北側に移し、中央線を陸橋でまたごうと計画されたのです。荻窪駅北口が開設されたのは昭和二年で北側の一帯は、まだ原っぱでしたのでそこに青梅街道を通し、道幅を拡げようという計画でした。

立体交差の路線橋工事は、昭和十七年に着工されました。太平洋戦争が激化してくると、桃井二丁目の中島飛行機製作所(現・桃井はらっぱ公園)や、三鷹、立川方面にある軍需工場からの輸送が増加し工事は急がれました。しかし、その頃になると、日本の経済はひっ迫していて、工事をしようにも橋を造る為の資材も無く、もう土木工事どころではなくなってしまいました。その上、完成を目前にした昭和十九年十月の空襲で、爆弾が橋の中央部を直撃し、陸橋と線路を破壊してしまいました。荷物電車を狙った艦載機が、陸橋の下に逃げ込んだ電車のところに爆弾を落としたのでした。

終戦を迎え都市再建と共に、陸橋復旧工事は昭和二十三年に始まり二十四年に竣工しましたが、まだ人や牛に引かれた荷車、せいぜい自動車のみの通行でした。その後、路線橋工事が当時の国鉄管理のもとに再び始まり、長さ42・4メートル幅が青梅街道と同じ25メートルの陸橋が、昭和三十年二月に完成し「天沼橋」と命名されました。また、都電が陸橋を渡ったのは、昭和三十一年で、その使命を終えたのは昭和三十八年です。

この陸橋の完成により、青梅街道の流れや、中央線には支障が無くなったのですが、荻窪駅周辺の交通は、南は南、北は北に分断されてしまいました。荻窪を南北に行き来しようとすると、駅の構内を階段で地下に降りて上る、または、離れた新宿側の地下通路や西口の架線橋を上って下りるしかありません。車を使おうとすると、更に大きく五百メートル以上も迂回して、陸橋か環状八号線を使うほか無いのです。また、電車に乗るにも、階段を下りて、階段を上らなくてはいけない。荻窪駅だけを見ていると不便さが良く分かりませんが、阿佐ヶ谷駅などと比べると不便さが良く分かります。今でこそエレベーターがありますが、それ以前は車いすでの移動もまた大変なものでした。それだけに街の発展に大きな障害となっています。

現在、平成二十三年完了予定で、立川までの中央線高架化工事が着々と進められています。三鷹駅より西の高架化が大半進み、武蔵境駅や東小金井駅の近辺を南北にスムースに流れる車を見たり、実際に走ってみるとその利便性が高まった事を実感するのと併せて、私たちの荻窪駅も高架にして欲しいものだと切に思うところです。

ところが、一度だけ荻窪駅を高架に出来るチャンスがあったそうです。これから以降は「新天沼杉五物がたり」の最後に書かれている『荻窪物語:松葉襄 稿』を抜粋させていただきます。

昭和三十七年頃、当時の国鉄は、中央線の利用度の急激な上昇に対処するため、それまでの複線を高架化して複々線化する計画を進めていた。それは、高架化であった。ところが荻窪で大きな問題にぶつかっていたのである。青梅街道が荻窪で線路をまたぐが、陸橋をどう処理するかである。国鉄は、現状のままの地上線にしておくことを決めた。変更は膨大な費用がかかるという理由によるものであった。

計画を知った商店街を軸とした地元は、他の駅が高架で荻窪だけが地上線であることが街にどういう影響を及ぼすかが分からず、それぞれの思惑、情報、利害関係で議論百出した。やがて、なんとか高架化の方向でと、一般住民も参加し総ぐるみの運動になった。 そして、国鉄と荻窪地元との最終交渉の土壇場を迎えた。地元としては、とにかく荻窪の将来の為にと意見を一つにして、最後の交渉に臨んだ。 国鉄側は、この計画を担当する東京鉄道管理局の最高責任者の局長の出席があり、地元は、国会議員団をはじめ地元代表の有力者すべてを揃え、そうそうたる顔ぶれで、まさに背水の陣をしいての強力な申し入れである。話は進み、その熱意に押され、さすがの国鉄側も高架化しなければならない雰囲気に変わった。

一呼吸置いて、「では、お尋ねしますが、高架化することは、地元の総意ですね」と、国鉄が地元に念をおした。

その時、陳情団の一人が、つぶやくように言った。「いえ、私は、本当は反対なんです」と。一瞬、皆は、あぜんとして声がなかった。それで、すべてが終わった。たった一人の、己の利害のみを考えた反対の声で。そう言った人も、その時の状況を話してくれた人も、今は亡くなっていない。だが、今もその問題は残って消えない。

以上参考にさせていただきましたが、実際には、一人の反対だけではなく他にも反対した人はいたそうです。例えば、北口の商店街は賛成で,南口の商店街に全部ではないのですが、反対派の人がいたそうです。その理由としては、複線を複々線にするわけですから、線路の敷地を広げないといけない、そのために南口のほうの土地を国鉄が買収したそうです。この土地を売った人たちが高架化に反対していたとの話も聞きました。

国鉄としても当時の技術で、陸橋を壊しながら電車を運行するのは困難だったのでしょう。今なら一日で出来るかもしれませんが。

今、荻窪駅北口に立って、まじまじと駅を見ると、さびで汚れた「荻窪駅」と書かれた看板が見えます。「高架化していたら、この看板は新しくなっていたのかな。高架化していたら、歩いて北から南にすっと行けるのになぁ。電車が高架を走ると、タウンセブンもルミネも違う姿に成っていただろうなぁ。」と、想像すると、残念だったなぁーと思う次第であります。

また、現在も荻窪駅の高架化をJRにお願いしているそうですが、エスカレーターやエレベーター、天沼橋にJRがお金を出していることを考えると難しいでしょうね

平成22年7月1日

天沼今昔物語 第八話

はじめに

今回は「あまぬま」の地名についてお話をさせて頂きます。「あまぬま」の地名が出てくるのは、今から千三百四十年も昔の奈良時代の頃です。奈良の都から全国に通じる駅伝の制度が整えられ、京と諸国の国府とを連絡する幹線道路に適当な間隔をおいて駅を設け、駅馬を乗り継ぐ事によって管用通信や官人の往来に資するように全国に隈なく設置されました。この駅名については延喜式という古文書に細かく見られ、駅名の読み方まで記載されています。

駅は駅馬を養って往来官便に乗継の馬を供給したほか、彼らを宿泊させる設備も備えていて、自然そこには集落が発達しました。

乗潴駅についての旧説

昭和二十八年頃

乗潴駅は延喜式には載せられていない駅であって、その名の見えるのはただ一度、続日本紀、神護景雲二(768)年三月一日の記述に、「下総の井上、河曲、浮島の三駅、武蔵の乗潴、豊島の二駅」とあるだけなのです。この五駅のうち四駅はその後延喜式に載せられ、振り仮名が付けられているのに、乗潴はそれに漏れているので読み方が分からず、この為戦前から、乗潴の駅が何処にあったのかが歴史地理研究の好題目であったのだそうです。

その候補地として、①杉並区天沼説②大宮市天沼説③北埼玉郡岩瀬村小松説④練馬区戸部村説がありました。

さてこの様な諸説が出る原因は、少なくても二つあります。一つは乗潴の読みが定まらないということ。アマヌマとも読めるし、ノリヌマとも読める。そして、その可否を決定する根拠が乗潴駅関連の資料には無いと言う事です。

もう一つは乗潴駅の名は続日本紀に一回しか出ていませんが、それをめぐる関東の交通路線の状態を示す記事が国史に散見され、この文献の解釈に、人によって相違がある為です。

乗潴が一度しか出てこない理由

畿内から長野、群馬、東北へ伸びる東山道がありました。その枝道に新田、足利から武蔵国の国府 府中に繋がる東山道武蔵路があり、武蔵国は東山道に属していました。また、東海道は、畿内から平塚、鎌倉、走水と来て東京湾を渡り、富津岬、木更津、上総国の国府 市原、そして、香取から霞ヶ浦の東を回り潮来、終点石岡の順路でした。この為、府中から市原や石岡に行くためには、南に下がっていかねばならず、時間も、また、海を渡るということで危険も伴いました。この為、府中から東に陸路で、乗潴、豊島、浮島、井上、河曲、下総国の国府 市川に到達していたのですが、東海道が変更になり平塚あたりから北に上がり、町田、大井、豊島へとつながったのです。この為、豊島、浮島、井上、河曲も東海道に編入され、延喜式に記載され、振り仮名も付けられましたが、乗潴駅は廃止となり振り仮名をつけられずに歴史上から消えてしまったのです。府中も町田と繋がり、東海道に編入され、東山道武蔵路は廃止されました。

乗潴の読み方

乗の字は、「のる」と読むのが今では自然ですが、乗潴の文字がただ一度出ている、続日本紀を含めて、その前後の古文書の使用例を調べてみますと、①ノリの読み方が二十例②アマの読み方が二十八例で、乗の文字を、ノリ(乗り)と読んだり、アマル(剰る)と読んだりして使っています。

例えば、当時の律令用語で、乗田という言葉がありますが、これをアマリノタと読んでいますので、乗潴と書いてアマリノヌマと読まれ、アマヌマと読まれる様になったと考えられます。

また、沼についてわざわざ潴の文字を用いているのは、しいて字数の多い字を用いようという意思の現れで、乗の字もそれに合わせた文字であって、普通天沼の文字で表現されるような、自然水を湛える沼としてのアマヌマの語に、いささか気取って当てはめた文字であると考えられます。

乗潴駅は何処にあったか

昭和五八年頃の発掘

乗潴驛を含む連絡道の五駅がどこにあったのかは諸説があり、いずれも推測の域を出ませんでしたが、昭和五八年頃の発掘によって、この五駅の内のひとつ豊島駅が、京浜東北線の、上中駅(王子駅の南)崖上の平塚神社の境内地を含む一帯から出土しました。

駅間の路線は、なるべく直線で結ばれるように設定され、その距離は16キロが基準で。また、水と草の入手し易い所に設ける様に定められていました。ここで、平塚神社と府中の大国魂神社を直線で結んでみますと、25.8キロあります。ちょっと中途半端な距離ですね。また、その直線路上に天沼村があり、かつ、その中間点は交差点の四面道あたりになります。沓掛、神戸、天沼の地名が残っていますので、この付近に乗潴驛があったと言えるでしょう。

沓掛けの地名は、馬の使用する草鞋を馬沓と言い、その馬沓を掛けて干す所を沓掛けと言ったのです。なにしろ一頭で一日三十二個必要で、十頭の馬がいましたので、一日三百二十個必要となります。 その膨大な量を掛けておく場所も結構な広さを必要とします。古地名の字沓掛は、今の清水一、二、三丁目あたりで、沓掛小学校、沓掛ホーム等で地名が残っています。

神戸の地名はこれらの従事者が居住した所を郡戸と呼んでいました。これが、強戸あるいは神戸と書かれて、現代まで伝わって「ごうど」と呼ばれる地名が残っているのです。古地名の字神戸は今の下井草四、五丁目あたりで、神戸町児童遊園で地名が残っています。

また、乗潴をノリヌマではなく、天沼の地名が残っていますので、アマヌマと読んで問題ないでしょう。

それでは、乗潴驛が何処にあったかですが、本天沼は、昔は天沼村字本村と言い、天沼村の東の方は字宝光坊、南の方は字中谷戸と言っていました。

字本村といった訳は、「この土地が本当の天沼だ」という意味があるのではないでしょうか。天沼も広いですが、乗潴驛があったのは、妙正寺池の南東の高台、沓掛小学校の東の高台にあったと考えます。

そして、乗潴駅が廃止されても道自体は使われていたのではないでしょうか、やはり、府中から町田に南下して豊島に行くよりは、東進して豊島に行く方が近いのですから、29キロとして8時間、お昼の弁当を持っていけば行けない距離ではないと思います。この様な気持ちで沓掛け小学校の高台に立って、西の方を見ますと人の手で新たに作られた直線道路がまっすぐに伸びています。東の風景を見ますと、曲がりくねっていて地形に応じて作られた道に見えます。また、よくよく地図で見ると妙正寺川に沿っていることが感じられ、この道が千三百年前から日本人が歩いていた道かもしれないとも思えるのです。

おわりに

「あまぬま」の地名は、乗潴から始まり、天沼に至っているとお解り頂けたと思います。今から一三四三年前からある由緒ある地名なのです。そして、あまぬまの地名が次に歴史に出てくるのは、「寛永十二(一六三五)年 徳川将軍家光公が阿佐谷、天沼、堀之内、下荻窪村を赤坂の日枝神社に奉納する。」の記述なのです。これから以降はこの天沼が使われ始めます。

以上左記の資料を参照して、あまぬまについて考えてきましたが、皆様方のご意見、ご指摘、他のお話等々ありましたらご指導頂ければ幸いです。

参照文献
  1. 井口昭英著 井草のむかし 歴研[郷土史研究]ブックレット
  2. 杉並郷土史業書一 杉並区史探訪
  3. 坂本太郎著 日本古代史の基礎研究 下 制度篇 東京大学出版会

平成23年7月1日

天沼今昔物語 第九話

天沼の地名と 阿佐谷駅が出来た経緯

天沼という地名から、ここは地盤が弱いのではないかと考える方が結構いらして、昨年の東日本大震災以後不安に思っている方が多いようですので再び天沼の地名について説明します。

東京の隣接県で天沼の地名は、この東京都で一ヶ所、神奈川県に一ヶ所、埼玉県に十一ヶ所合計十三ヶ所あります。

此の所をすべて調べた方がいまして、これら天沼の地形に共通することは、池、沼、あるいは流水の傍らにある高地である事だそおうです。これから考えられる事は、天沼とは、池、沼、湿地帯に近接する高所で「沼の上(天)」を意味する地名という事です。

当社には、大正七年〜昭和三年に描かれた天沼村の絵地図があります。これをみると沼は一つもありません、但し弁天池が一つだけありますが、この池は人工の池で昔からあった池ではありませんので無視して問題ありません。天沼は江戸時代には鷹狩りのため禁漁区で、地形に手を加えることが出来ませんでしたし、江戸時代は73戸、明治時代の始めは77戸の戸数でしたので地形に手を加えたとは考えられません。

天沼の地形が変わったのは、昭和六年から始まった区画整理からですから、天沼と言ってもやはり沼は無かったはずです。天沼とは沼や湿地帯がたくさんある所という意味ではなく、沼地の上の台地と考えて問題ないでしょう。

杉並区の天沼で言えば妙正寺川沿いにあった湿地帯の上のほうにある台地を天沼という地名にしたと考えます。ですからこの天沼は地盤がしっかりしている所と考えます。ちなみに一年前の地震の後、屋根にブルーシートを被せた姿は阿佐ヶ谷、高円寺と比べて天沼は極端に少なかったです。

さて前置きが長くなりましたが今回は阿佐谷駅ができる経緯を森泰樹氏の『杉並区史探訪』より抜粋して紹介します。

松永うめさんは「大正九年春のある朝、馬橋の高橋清吉さんが釘を買いに来られ「昨夜は寄りあいでおそくなったので眠い」と言われたので「何の寄り合いでしたか」と聞きますと「鉄道省から馬橋稲荷様の東方(現在の杉並学院高校東側)に駅を新設するから、敷地を提供してくれとの申入れがあったので、その相談をした」との事でした。夕方主人に話しますと、びっくりしてすぐに、相沢喜兵衛さんへ飛んで行きました。(びっくりして飛んで行った理由は、馬橋の話の前に相沢さん達が鉄道省に陳情に行ったのですが軽くいなされて相手にされなかった事があったからです)

それから半年間位主人は誘致運動に夢中で毎晩のように、寄り合いに出掛けて居りました。一ヶ月位経って、駅の敷地は相沢さんが全部提供する事にして、鉄道省に陳情書を提出しましたが、「既に中野、荻窪間の中間地点と荻窪、吉祥寺の中間地点(現在の西荻駅)に新駅設置が決定済」と書類は却下されました。

青梅街道南側(現在の成田東四丁目、杉並警察署の南側)に、愛媛県選出の衆議院議員で李王殿下の教育掛りをされていた古谷久綱先生が住んで居られましたので、相沢さん、玉野さん等村の主だった方がお願いに伺い、先生を通じて猛運動を再開致しました。(中略)先生よりお宅に「鉄道省から役人が見に行く」等の電話連絡がありますと、書生さんがウチへ報せに来られ、主人は仕事を放り出して、皆さんへ知らせに飛んだものです。申請駅は、中野駅から一・五哩、荻窪から○・九哩の地点なので、余り西に片寄りすぎていますので、交渉は難航して一時はほとんど絶望視されました。先生は「申請駅と中野駅との間にも一つ駅を作る案で交渉するから、高円寺村に相談してくれ」と指示されました。両村が合意しましたので、地元選出の高木先生を加えて、新しいプランを持って鉄道省と政治的に折衝され、とうとう阿佐谷駅と高円寺駅が誕生したので御座います。」と語っていました。

又、後日談ですが、横川春吉氏の話では、「古谷さんの御力添えで、阿佐谷駅が出来たので、村のオモダチ(幹部)が礼金を包んで持って行ったが受け取らなかったので、せめて先生のお抱え人力車が楽に通れるようにと、駅からお宅の玄関までの道を整備する事になり、阿佐ヶ谷通りは両側三尺づつ、畑道は六尺づつ出し合い三間道路に致しました。これが現在のパールセンター通りです。私の家でも三尺幅で九十間出したので、父親より古谷さんの話をよく聞かされたものです」と話されました。

阿佐谷村は土地区画整理を行っていませんので、今でも中杉通りの裏に入ると曲がった道や細い道ばかりで、引越し屋のお兄さんが困惑する道路ばかりです。それなのに、どうしてパールセンターみたいな商店街が出来たか不思議でしたが、この様な理由があったのですね。

平成24年7月1日

天沼今昔物語 第十話

内田秀五郎氏について

 今回の天沼今昔物語は、杉並の功労者でもあり、天沼にも大きな影響を与え、日本で最大の区画整理を行った内田秀五郎氏についてお話をしたいと思います。
 天沼には、急に幅の広い道路が、また、寸断された道路が2本あります。これは、昭和六年から始まった天沼の区画整理の途中の姿です。区の計画にはまだ区画整理中とあるそうです。実は、井荻村で区画整理が行われ、その姿を見て天沼の人々も決意して区画整理を始めたのですが、大東亜戦争がはじまり途中で取り止めになったのです。誠に残念なことです。

  

 それでは、杉並の区画整理の始まりの姿からお話をさせて頂きます。
 『新修杉並区史』の土地区画整理のところに、「杉並地内でもっとも早くに組合が結成され、事業の開始をみたのは、大正十二年設立の高円寺耕地整理組合によるものである。これは、名目上、高円寺駅南側の中野に至る湿田約一万坪の耕地を整理するための事業とされていたが、その真の目的は高円寺駅新設を契機に、耕地としては利用価値の低い部分を開発しやすいように準備することに置かれていた。この事業は種々の事情から進行が大幅に遅れて、ようやく目的を完遂したのは昭和十五年のことであったが、この組合設立に遅れること約一年にして着手された井荻土地整理事業は、理想的な宅地の造成という目的をほぼ完全に達成して、昭和十年には工事の竣工をみている。」とあります。
 真相を知らない人は、サーと流してしまうところだと思いますが、真相を知っている人がこれを読むと、「ああ、やはりこのような奥歯に何かが挟まった表現の記述なるのかな。公文書だから仕方がないか。」と思うと思います。
 しかし、森泰樹氏が書かれた杉並郷土史業書『杉並区史探訪』には公文書ではないので本音の話が出ています。これを読むことにより、「どうして高円寺が遅れたか。内田氏がいかにすごい人であるか。」ということが分かります。
 内田氏自身の言葉です。「高円寺区画整理組合は、大正十二年設立されたのですが、仲々うまく進まず、工事請負人が夜逃げした事などがあって中止の状態でした。昭和十三年頃、同町の大河原さんを始め有力者の方々が、何回も頼みに来られてやむなくお引き受けしました。換地清算に苦労した経験からだれにも文句言わせないように偉い人を組合長に座ってもらおうと考え、同町の町会長をしておられた陸軍少将横田定雄氏にお願いし、幸いにして組合長就任の承認を得、私が副会長になって、同十五年に完成致しました。換地清算業務も無事終了し関係者の方々に大変喜ばれました。」とあります。
 『新修並区史』には、「高円寺の業者が夜逃げした。」とは書いていませんし、「井荻の換地清算業務も、苦労はしたけれども最後は円満に収まった。」という表現になっていますが、実際は相当に苦労したのが『杉並区史探訪』でわかります。私は、高円寺よりどうして井荻の方が早く区画整理を終えることが出来たのかが謎だったのですが、これを読んでようやく謎が解けました。
 この事から、内田秀五郎氏の人様に対する優しい配慮を理解でき、このことが私に感銘を与えたのです。
 調べて行くと、内田氏は三十歳で村長になったのですが当時は直接選挙ではなく、村会議員による選出でした。ということは、若い時から人望があったことをうかがわせます。そして、その政治姿勢は一貫して、村民の為、村民の生活向上にあることが分かりました。そして、この井荻村が変わっていく姿が天沼にも、他の近隣にも影響を及ぼし杉並が生活しやすい土地へと変わっていったのです。内田秀五郎氏のそのいくつかの業績を紹介したいと思います。

1  荻窪警察署、郵便局、消防署
 荻窪警察署は、昭和十年に開設された警察署ですが、荻窪駅から離れた桃井にあります。出来れば駅に近い方が良かったと私は思うのですが、たぶん駅の近くに土地が探せなかったのでしょう。それで当時井荻町長であった内田秀五郎氏に相談されて、内田氏が、「町の発展と住民の安全維持のために警察は絶対に必要である。」と小美濃工場と石寅石材店を説得し、移転して頂いた為に青梅街道沿の今のところに建設されたのです。
 郵便局も、昭和十一年に天沼に開設されたのですが、昭和二十八年に現在の桃井に移設しました。消防署も桃井にありますので、たぶん同様の理由ではないかと思います。なにしろ、官庁ですから確実に税金を納めてくれて井荻町としてはありがたい存在だったと思います。

2 大正十年に村の 全家庭に電灯を設置
 内田秀五郎氏のお話です。「大正九年頃より電灯を引く計画をたて東京電灯株式会社と交渉しましたが、井荻村は、東西約五キロ、南北約四キロで、約十一平方キロメートルの広さの中に、六百戸の家が点々と存在している状態でしたから、採算がとれないからと断れました。それから数十回会社と交渉した結果、幹線電柱代と工事費は村当局が負担し、引く家は各自必要な支柱をだす、各戸二灯以上申し込み、電灯料金は一ヶ年間村役場で集金して会社に納付するとの条件で、大正十年十一月に、付近の町村に先駆けて、全村の電灯が輝いた時のうれしさは今も忘れることが出来ません。」とあります。今でこそ簡単に電気を引けますが、昔は大変だったのが、この事より分かります。

3 中島飛行機荻窪工場

荻窪警察署の北側に桃井原っぱ公園がありますが、以前は日産 の自動車工場でした。その前は中島飛行機荻窪工場があったのです。この工場も内田秀五郎氏が誘致を行ったのです。『新修並区史』より紹介します。
 大正中期頃までのこの周辺地域の工業は、さしてみるものはなかった。この区域の近代工業の先駆とも呼べるのは、大正十三年井荻村に誕生した中島飛行機株式会社である。
中島飛行機は大正六年、海軍退役将校、中島知久平が創立したもので、当初は群馬県に工場を持っていた。井荻村に工場を建てる契機となったのは関東大震災であったといわれ、「人情として生まれ故郷のある群馬県内に設けたくもあり、そうすることが機体工場との連絡も良いのであるが、天災地変や材料、下請工場との関連、軍部との交渉などについて考えると、東京の郊外に設置するのが得策であると結論された」と『巨人中島知久平』に記されている。
そこで候補地として、青梅街道沿いの地域を探し、まず中野地区・阿佐谷などを物色したが住民の反対で実現せず、結局井荻村上井草(現在の桃井)の畑地三千八百坪(のちに一万三千余坪に拡大)を買収して五百五十坪程度の工場を設置する事になる。
 井荻村では、工場が出来れば村の財政を潤すことになり(なにしろ、その当時は畑しかなかった)、その面からは歓迎すべき事であったが、反面に環境悪化も付随する課題であった。そこで村当局は、中島飛行機に四つの条件をつけたのです。(これは環境アセスメントの走りです。驚きです。)
1 煤煙を出し周囲の木立を枯らすことのないようにすること。
2 音響振動等のため小学校児童教育に支障のないようにすること。
3 溶鉱炉による悪ガスを発散し、人体、耕作立木等に害をあたえないこと。
4 地下水の使用によって周囲の井戸水が枯涸することのないようにすること。
以上『新修杉並区史』の抜粋ですが、この条件のおかげで、大正十四年秋には工場が完成し、当初は七十名~八十名の従業員であったのが、翌年には従業員二百名という大工場に変身していきました。畑しかないところに最先端を行く会社が出現したわけであります。税金を納めてくれ、村民を従業員として雇ってくれる会社であったのです。当時の村民の現金収入は、朝早く起きて荷車に積んだ野菜を、淀橋や神田、遠くは日本橋まで運んで得ていたのが、雨が降っても問題ない現金収入の道が得られたのですから大変な変化だったと思います。ちなみに中島飛行機工場では、ゼロ戦のエンジンの開発と製造が行われていました。
中野、阿佐谷が断ってくれたおかげで、いまでは防災公園が杉
並に生まれています。また、蛇足ですが日産社長のゴ―ンさんの改革で日産工場が売りに出された時、杉並区でも購入に動きましたがお金が無いのであきらめていましたが、当時の山田弘区長が当時のて頂きました。そのおかげで日産荻窪工場が桃井原っぱ公園に生まれ変わりました。内田氏の知恵が公園に変わったと言えるのではないでしょうか。
また、荻窪病院は中島飛行機工場の付属の病院だったのです。この事でも私たちは内田氏の恩恵にあずかっていると思います。
以上、内田秀五郎氏について述べさせていただきましたが、まだまだ皆様に知って頂きたい業績があるのですが紙面の都合で次回以降に致します。また、誤りやご指導がありましたらお電話でも結構ですのでご連絡頂ければ幸いです

平成25年7月1日

天沼今昔物語 第十一話

内田秀五郎氏について2

 昨年の社報で内田秀五郎氏について、1荻窪警察署、郵便局、消防署 2大正十年に村の全家庭に電灯を設置  3中島飛行機荻窪工場、についてお話しましたが、今回はそれ以外の事も少しお話させて下さい。

4 産業組合(現在の信用金庫みたいなものです)
 東京府は各地域の産業の振興、民力涵養、民生安定を図る為に、大正五年から産業組合に関する講習会を開催して、積極的に組合育成にのりだしました。
井荻村村長である内田秀五郎氏は、明治四十二年に組合員数二十八名の小規模な『井荻信用購買組合』を組織し運営していましたので、その必要性を強く感じていました。その為、大正五年一月の東京府産業組合講習会にいち早く参加し、産業組合が産業振興上いかに大事であるかを再確認しました。その為に『井荻信用購買組合』を解散して、井荻村全区域を対象にした大組合の創設を決意するのです。
 ですが、この決意から組合創立までの事情は必ずしも簡単ではありませんでした。内田氏は、農会の系統組織を通じて、あるいは部落実行組合と気脈を通じて、産業組合の必要性をていねいに、ていねいに説いて回り、大正七年十一月に、有限責任 井荻信用販売利用組合を設立し、事務所を役場内に置き事業を開始しました。
和田掘内村、杉並村信用組合より2年早く立ち上げたのです。
また、産業組合の主な業務は資金の貸付、貯金取扱、物品購入等で、この組合が後の、平成信用金庫、今の西武信用金庫に変わっていきます。

5 区画整理の始まり
 内田秀五郎氏は、明治四十年から村長、町長を二十一年間やられましたが、明治の井荻村はポッツリポッツリと家がある程度ののどかな村でした。そして道といえば曲がりくねって、急な坂が多く、また側溝が浅い為に水の流れが悪く、ひと雨降ると道路がぬかるみになって歩くのも困難な状態でした。そうなると荷車を動かす事も出来ず、立ち往生して積荷の大根を人が背負って運ぶ事もよくありました。村長であった内田氏はこの姿を見て胸の痛む思いをしましたが、貧弱な村の財政では、道路の整備などは思いもおよばすわずかに砂利をまく程度でした。
 このような状況の中で、大正十一年七月に地主さん達の協力で鉄道省へ駅敷地四百三十坪を寄付して、西荻窪駅が出来ました。しかし、駅から青梅街道までは幅3mのアゼ道だったので、これを12m道路にしようと関係地主に相談したのですが、大地主地主のKさんが「自分だけ損をするのは嫌だ」と反対した為に難航し「全村の耕地整理をして、道路を整備すれば負担の公平になる」と説得し協議を重ねたのです。平成26年7月1日 発行 (3)道路を整備すれば負担の公平になる」と説得し協議を重ねたのです。
 「耕地整理をすると、道路用地として耕地が減少する(当時は畑で野菜などを作って現金収入を得ていましたので、野菜などを作る土地が無くなれば現金収入が減るのです)。そして、工事費の負担金を出すのでは、生活上の脅威だ」と反対する意見が多くて、なかなかまとまりませんでした。
しかし、「道路が良くなれば農作業が楽になる。土地の利用効率が高くなるから減少分はカバーできる。負担金は心配するな」と夜明かしで、協議会というより説得会を重ねて事を運んだのです(大正七年の信用組合設立の時の経験が生きてきたのです)。
 十年余の年月をかけ区画整理を行った結果、大小の道路が縦横に走り、さらには湿地を埋め、高台を削り、妙正寺川や善福寺川などの水路も治められて素晴らしい環境の宅地が造成され、さらに町名地番も解り易いように改正されました。
 今となっては、道路により区画が整理されていますので、防犯上からも防災の点からも安心できると、地価が上がって来ています。

6 善福寺公園
 春の桜が咲くころにはお花見で、天気が良い時はお散歩で、また、ラジオ体操やランニングなどで私たちが良く使う善福寺公園。この公園の都立公園化に尽力したのも内田秀五郎氏なのです。始めから公園があったわけではないのです。
 都立公園の第一号は、明治公園(国立競技場等がある神宮外苑)で大正十五年に出来ました。その後昭和五年に善福寺、洗足池、石神井、江戸川の都立公園が出来たのです。今でこそ公園の意義は大きいですが、当時は余暇というものは一般の人々にはありませんでしたので、地主さん達に掛け合ったり、個人々に土地の寄贈お願いしたり、やっとのことで公園が出来たのです。本当にこの公園も杉並に住む人々の宝になっています。上智大学名誉教授の渡辺昇一さんもこの公園の側に家が欲しいと土地を求められて住まわれています。この様な知識人が住まわれると荻窪の文化水準も上がってきますね。
 内田秀五郎氏の銅像がこの公園にありますので、今度行かれたらぜひ拝んで下さい。よろしくお願いします。
以上二年に渡り内田秀五郎さんの業績を述べて来ましたが、本当にこの方がいなかったら杉並の発展は無かったと思います。
 この業績を年代順に並べて見ますと、産業組合T7、電灯T10、区画整理T11、中島飛行機T13、善福寺公園S5、警察署S11年、明治から大正、昭和にかけての村長、町長さんが内田氏で本当にありがたいことだったと思います。この井荻村を杉並村、和田堀内村がまねて、目標にして各村ががんばってきたので、今の杉並がある事を忘れてはいけないと思います。

平成26年7月1日

天沼今昔物語 第十二話

荻窪駅開設等について

 天沼今昔物語 善福寺公園今年の一月に杉並郷土史会主催の「中央線誕生~甲武鉄道物語」という講演がありました。その際面白い事を聞いてきましたので今回はそのお話をさせて下さい。

1 荻窪駅開設について
 甲武鉄道(現・中央線)が開業したのは明治二十二年で、その二年後に荻窪駅が開設されたのですが、「二年後に開業するなら最初から作れば」と思われませんか?やはりそこには訳があったのです。
甲武鉄道は青梅街道と交差していますので、当初から荻窪駅を作る必然性があって、荻窪駅用地の寄付(当時は全ての駅が寄付でした)を地権者の四名の方にお願いして、三人の方は了解したのですが、最後の一人が「あなたたちは駅に寄付しても生活が出来るだろうけど、うちは寄付したら生活できなる。」と反対したのです。
それで今度は阿佐谷村に話を持っていくと、やはり「先祖代々受け継いできた土地は手ばなせない。それに俺は入り婿出し。汽車は金持ちが乗るものだ。貧乏人には関係ない。(汽車が走りだした頃はどこでもこの様な感覚だったのですね。)」と反対者が一人いました。
 この様にそうこうしているうちに甲武鉄道が開業したのです。それで荻窪の反対した人に、「荻窪駅の雑貨屋をあなたの独占にするので、その利益で生活するのはどうですか。」と、再度お願いしたのです。それで、開設した、境(現・武蔵境)と立川駅の店を見に行って、「これなら生活できる。」と、土地を寄付してくれたのです。青梅街道は荻窪駅の北側にありますが、その反対した人の土地が南側でしたので、南側に雑貨屋を作る必要があり、それで、荻窪駅の改札口は南側になってしまったのです。
 北口が出来たのは、内田秀五郎さんが誘致した中島飛行機工場(現・桃井原っぱ公園)が大正十四年に出来て、当初は七十名~八十名の従業員であったのが良く年には二百名という大工場に変身していきました。その為に北側に改札口を作る必要性が強くなり二年後の昭和二年に開設されたのです。

2 甲武鉄道の電化
 明治三十七年に、万世橋・中野間の電化が完成し、日本の普通鉄道で初めて電車の運転を行いました。そして、中野・吉祥寺間は大正八年に電化が完成しました。電化が何をもたらすかというと、汽車は加速力が鈍い為にすぐには動けません、電車は加速力がある為にこまめに停車しても時間はかからないという利点があるのです。それで大正十一年に中野・吉祥寺間に、高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪駅を新設する事が出来たのです。

3 東中野・立川駅間の直線ルート
 朝日新聞社「中央線~東京大動脈いまむかし」に、「中央線が直線なのは、地元住民の反対にあったので、第三案で、いやいやながら実現した現路線であるという。(中略)『反対運動で頭にきた技師の一人が、勝手にしろと定規を地図の上に投げ出した。たまたま落ちたところが現路線だったわけさ』こんな笑い話が、いまも国鉄内部に生き残っている」とあるのですが、今回の郷土史会では、そうではないのでは?と説明がありました。
 鉄道ファンとして知られる、地理学者の青木栄一氏の著作「鉄道忌避伝説の謎」平成18年11月によると、「台地上に一直線に、しかも25キロという長い距離にわたって引けたということは、鉄道側にとって理想的な線形であり、地形的には何の障害もなかった(中略)。したがって、甲州街道筋の宿場町で反対されたから仕方なく台地上を走るようになったのではない。甲武鉄道の最終的な目的地は甲府であって、府中や調布程度の町は、建設ルートに入ろうが、脱落しようが、土木技術者の立場では問題にならないのである。現在までに、甲武鉄道のルート決定の経緯を記した文献は見つかっていない。甲州街道筋で反対されたから、仕方なく(現ルートの)大地を走るようになったのではない。」
驚きでした、私も大学生の時に朝日新聞の「地元の反対で一直線になった。」とのコラムを読んでこの時までそのように思っていました。
 青木先生の説明によれば、「江戸時代に栄えた各地の宿場町に、鉄道の駅が出来なかった理由を伝える話が残っていて、それが、戦後十分な検証もされずに地方史に編纂されたからだ」と言われています。
重ねてですが当時の鉄道局が残した資料も紹介します。
 「線路は東京府南豊島郡角筈村において、日本鉄道会社の品川・赤羽線(現在の山手線)の新宿停車場から分岐し、神奈川県南多摩郡八王子宿を終点とする延長23マイル8チエーン(37.2キロ)で、その方向は新宿停車場を出て左折して西行し、柏木・大久保の両村を経由して中野村に至り、それより高円寺・馬橋の諸村を過ぎて、青梅街道を横断して荻窪・境・小金井・国分寺・谷保等の諸村を経て立川村に出る。このうち中野より立川に至る15マイル(約24.1キロ)の間は一直線である。 立川において左折して多摩川を渡り、日野宿に出て甲州街道を横断し、さらに左折して豊田村に至り、右折左転し大和田村を過ぎて浅川を渡り、また右折して西北に向かい八王子に達する」(鉄道局「工事要路」大正10年 路線記録)とあります。
 やはり最初から一直線に計画されていたのですね。

4 お茶の水駅の建設
 明治四年に小石川に陸軍砲兵工廠が建設され小銃等の兵器を作っていました。その運搬の為に陸軍の要請でお茶ノ水まで鉄道を延ばしてくれと要請があり、甲武鉄道としては「直線」で結ぼうと考えましたが、陸軍が、「戦争の時の停車場で困っているので、青山練兵場へ新宿から回して欲しい。」とあり、千駄ヶ谷を経由して、赤坂御所と学習院の間の所に隧道を掘り、お堀に沿ってお茶ノ水までの甲武鉄道市街線が完成したのです。その後陸軍が兵員や軍需物資の輸送に利便を図る為に明治三十九年に国有化されました。ちなみに、日本鉄道奥州線は明治四十二年に国有化されました。

5 余談:東京駅について
 天皇陛下に馬車で、上野や新橋に行幸されるのは申し訳ないと、上野発の日本鉄道奥州線と、新橋発の官鉄東海道線を結ぶ高架鉄道の計画が明治二十九年に立案されました。しかし、日清、日露の戦争の影響で遅れ、荻窪駅が出来て二十三年後の大正三年に皇居の前に東京駅が開設されました。

平成27年7月1日

祈りのこころ

祈りの心-1

日本人はよく祈る民族だと思います。神社で、お寺で、教会で、クリスマスに、正月に、道路の片隅にあるお地蔵さんにも、これはすばらしいことだと思います。祈りは感謝の気持ちを育みます。感謝は謙虚さを導きます。謙虚さは誠実な姿を生み出します。

誠実な姿とは、気持ちと動きが伴ったものです。気持ちだけでは駄目です。動きだけでも駄目です。気持ちと動きが伴って始めて誠実な姿を見ることができます。我々が求めるところは、誠実に尽きると思います。祈ることにより誠実な姿に導いてくれます。

西行法師が伊勢の神宮で手を合わせ祈ったときに、「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と歌われました。お坊さんも神様の前で祈る。これが日本人の宗教観ではないでしょうか。

日本人の祈りは、祖先を尊崇する祈り、自然を畏怖して祈ることから自然に身に付けた心です。

農耕を営む中で、生きていく中で、祈る。祈る。常に祈りながら生活してきた民族であろうと思います。全てのことに祈ってきた。これが、日本を物造り大国に導いたのです。一つ一つを、丁寧に祈りを込めることで職人技になるのです。それで世界一精巧なものが造られるわけです。ワールドカップで使われたホイッスル、オリンピツクで使われた砲丸投げの砲丸、いずれも日本人が造ったものです。

宗教を聞かれてもこたえられないと最近の日本人は言いますけれど、それが日本人の宗教です。一神教の西洋とは異なるだけです。どちらが良い、悪いということではありません。私たちの宗教なのです。

曽我ひとみさんが帰国されたとき、「皆さんに、こんにちは。二十四年ぶりに故郷へ帰ってきました。とってもうれしいです。心配をたくさんかけて本当にすいません。今、私は夢を見ているようです。人々のこころ、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます。空も土地も木も私にささやく。『お帰りなさい。がんばってきたね。』だから私も嬉しそうに『帰ってきました。ありがとう』と元気に話します。皆さん、本当にありがとうございました。」と話されました。二十四年もの間、日本に居なかったのに、日本人のこころを失っていなかった。驚愕にあたいすることだと思います。きっと、拉致された北朝鮮でも祈りつづけていたのでしょう。祈りとふるさとが日本人のこころを呼び戻したのでしよう。

私たちも、祈りと、ふるさと、そして、今、お住まいの新しいふるさとを大切にしましょう。それが日本人のこころを育む第一歩となります。

平成18年12月

祈りの心-2

皆様に良く聞かれる事があります。「毎日のお勤め大変でしょ。」と、実は困ってしまうのです。「一日と十五日を除いては、たいした事はしていないのですから。」と何年も心の中で思っていたのですが、最近は「境内の清掃がお勤めかな」と思えるようになって来ました

常緑樹は葉っぱが落ちてこないと思っている人がいらつしゃいますが、ところがどっこい、春と秋の年二回も、しっかりと落ちて来ます。”椎”や”樫”の木の新しい葉は、古い葉っぱを押し出すように落として出てきます。そして、緑輝く若々しい葉っぱを見せてくれます。

また、今年のどんぐりは、落ち始めが早く、小粒でした。地球の温暖化を教えてくれているのか、たんに、夏が暑かったからでしょうか。ソロの木は、毛虫のような花(?)を落とし始めて、春の到来を教えてくれます。

桜の花はとっても椅麗で、皆さん大好きでしょうが、花びらと同じぐらいにたくさんの葉が落ちるので困っている人もいらっしゃいます。でも、落ち葉が落ちて、一、二ヶ月もすると小さなつぼみが出てくるのです。寒い冬にじっと耐えて、春の花咲く準備を始めているのです。愛おしくなって来ます。

一年を通じて十年、二十年と、木々と一緒に呼吸をしながら、庭掃除をさせていただくことで、四季のめぐりを感じるようになりました。その頃から、「人は自然の一部で、自然の中で生かされている。」という事を実感し始めました。感謝、感謝、生かされていることに感謝です。

これは、今をありのままに受け入れ、一生懸命生きていく事が大事だと教えてくれているのだと思います、今しかないと感謝して、精一杯生きて行く事が大事なことだと思います。

これを感じさせてくれた庭掃きが、お勤めではないでしょうか、この気持ちを、あなたさまに少しでもお伝えすることができればと思う今日この頃です。

新年に花もない、葉っぱもない桜の木を見てください。小さなつぼみの赤ちゃんが見つかるかも知れません。そして、自然の息吹を感じてください。清清しいお正月を迎えることができますよ。

(ありがたいと思う気持ちが、感謝の気持ちを育みます、感謝する気持ちが、謙虚さを導きます、謙虚さが、人にとって一番人事な、誠実な姿を生みだしてくれます。)

平成19年12月

祈りの心-3

感ずる落ち葉そうじ

神社の朝一番の仕事は、ご社殿の扉を開ける事です。次に、神様にご挨拶をして、お参りの方が気持ち良くお参りいただけるように、境内の掃除を行うことです。これが嫌いだったんです。毎日、毎日、一年中、休み無しなんですから。

落ち葉は秋だけだと思っている方もいると思いますが、落ち葉掃除は一年中なんですね。春でも、冬でも、だから嫌いなんですね。休みがないんですから。「常緑樹も葉っぱが落ちるんですね〜。」と言う方がいましたが、常緑樹は一年中落ちています。

ですから、雨が降れば喜んで朝寝をしていました。雨が上がっても「葉っぱが濡れてまだ掃けない。」、小雨が降ってきたら、「ア!雨だ。」と掃除をやめて家の中に戻っていました。しかし、朝方雨が降っていたある午後、道路を掃いている時に、下校中の一年生から「あ、寝坊したんだ。」と、言われました。「ドキッとしました。こんな幼い子でもしっかり見ているんだ。」と、驚いてしまいました。

それからは、掃き掃除をしっかりと意識して始めました。10年ほど過ぎてから、季節が巡っているのが判るようになりました。

常緑樹の"しい"や"かし"の新緑が輝く4月。ケヤキの葉が出てくる5月。秋になると"いちょう"の葉っぱが黄色くなって、素晴らしい景色を見せてくれます。そして、もっとすごいのは、黄葉に朝日が当たる時です。金色に輝くんです。これは、朝早く起きている人しか見ることが出来ません。真っ暗な中、外灯で照らされた黄色い葉っぱを掃き始めて、東の空が黒から紺、紺から青く、青から水色に、そして、雲がオレンジに輝いてきます。冷気の中、そのオレンジの光が、"いちょう"の木の先端に当り、黄葉が金色に輝いてきます。感激です。是非早起きして見てください。

また、春には、ソロの木から毛虫みたいな姿の、花なんでしょうか、何なんでしょうか、沢山ドサッと落ちてきます。「あ〜また今年も毛虫が落ちてきた。春も近づいたな。」と、思ったりもするのです。

一年、二年の庭掃除では、この"季節のめぐり"はなかなか分からりませんでした。落ち葉を掃除しているという意識だけでは。10年すぎて、やっと「この木の次はこの木かな、そろそろどんぐりが落ちてくる頃かな。」と分かってきました。そんな時に「自分もこの自然の中に包まれているのかな?自分も自然の中の一部分なんだな。生かされているんだな〜!!!」と感ずるんですね。そこに神の力を感ずるんです。「神がこのすばらしき自然を造り、人をもまた造り給ふ。」と感ずるんです。 コンクリートジャングルの中で仕事をしている人々には分からない事だと思います。そして、この素晴らしき四季があるのは日本だけなんです。ありがたいことです。お忙しいとは思いますが、春は桜、秋は紅葉と四季の巡りを感じられてください。心が豊になっていくと思います。

天皇陛下 御即位二十年

御即位十年のお祝いの時には、私をはじめ7人の方々が、熊野神社の代表として、皇居前での式典に参加してまいりました。寒くて雨が降る中8万人の方々が不平不満も言わずに両陛下がお出ましになるまで3時間以上も立ってお待ちしていました。式典に感激し、参加の皆様の態度にも感動して帰って来たことを今でも忘れません。

来年11月12日に御即位二十年の式典が計画されています。ご一緒しませんか。感動、感激を皆様と共に感ずることができればありがたいと思っています。

言霊について

神道において、と言うよりも、日本人として言霊思想について少しお話させて頂ければと思います。色々な会合などで、使わないほうが良いという言葉があります。忌み言葉というものです。「割る」や「終わる」をさけて、「鏡開き」や「お開き」と言ったり、「すり鉢」を「当り鉢」、「するめ」を「あたりめ」、「切る」を「入刀」などなど。知らず知らずのうちに、私たち日本人は、昔から、言葉の使い方を大切にしてきました。それは、言葉に命が宿ると考えてきたからです。神道では、祝詞がまさにそれにあたると思います。

嫌なことを聞けば、嫌な気分が生まれるので、嫌な気分になる。つまり、言葉が事柄(ことがら)を生んでいるのです。言葉が、聞いた人の心の中に住み着くということになる。うれしい事を聞けば、うれしい気分が生まれ、うれしくなる。これも事柄です。何も言わなければ、何も起こらないので「口は災いの元」という格言もあります。

言葉によって、喜怒哀楽が起こってしまう事を私たちは体験していると思います。言ったことがそのまま形となって現れるという信仰が、言霊信仰です。つまり、言うことが事柄(ことがら)になる、ということです。

万葉の時代には、「言(こと)」と「事(こと)」とは混じりあっていて、同じ意味に用いられていました。「言と事と心が一体だから、言葉が事柄を生む。」という考えは、言葉の中に霊が生きているからで、それを言霊と言うのです。

そこで言葉が人に与える影響が問題になってくるのです。テレビやラジオなどで釈明の発言などを聞いていますと、単に説明文を読み上げている発言と、本当に申し訳なかったという気持ちが伝わる発言があります。発言の内容ではなく、発言の言葉に気持ちが入っているかどうかを私たちが分かるからです。言霊を感じる力を私たちが持っているのでその違いが分かるのです。ですから、私たちは言葉の大切さに思いをめぐらさなければならないと思います。

常日頃私も、言葉遣いには気をつけていますが、「しまった。なんであんな言葉を使ったのか。」と思うことがたびたびあります。そのときには、やさしくご指導いただければ幸いです。よろしくお願いします。

この「言霊について」は、神社新報に掲載された、皇學館大學教授の松田典祀先生の「国語の特質としての言霊思想」を参考にさせて頂きました。